2021/05/13

イード・ムバーラク!

節制生活お疲れ様でした

2021年のラマダーンが最終日を迎えました。節制生活を送られた皆様、本当にお疲れ様でございました。
今年は、コロナ禍で全世界規模でイードの礼拝も自宅にて行うことを余儀なくされております。



自宅で行うイード礼拝


そこで、自宅で行うイード礼拝の最低限をお知らせしてみます。


まず時間ですが、日の出の45分後からズフル礼拝の45分前まで。
時間的な余裕をみれば、東京近辺の場合は、6時半から10時半の間に済ませれば問題はないでしょう。

イードの礼拝は、2ラクア


回数は、ファジュルの礼拝と同じ2ラクアですが、タクビール(「アッラーフ・アクバル」と唱えること)の回数が違います。


一回目のラクアでは、合計で7回。2回目のラクアでは、合計で5回です。

一回目のラクアでは、「ファーティハ(開端章)」の後に「(アル・アアラー)至高者章」(第87章)をそして2回目のラクアでは、「ファーティハ」の後に、「アル・ガーシヤ(圧倒的事態章)」(第89章)あるいは「アッ・シャムス(太陽章)」(第91章)を読むのが、スンナ(ムハンマドの言行)であると、モロッコのイマームによる下のURLでも説明があります。


そのURLではコロナ禍でモスクで祈ることができない非常事態のためにと、家でのイード礼拝がコンパクトに示されています。イメージがつかめないようでしたら、参考になさってください。
https://www.youtube.com/watch?v=KXO9Kf37WI4

イード礼拝の後は、通常であれば、訪問などを行って、1か月間の喜びを分かち合うとともに、互いのつながりを大いに温めるところですが、今年は、そのあたりの工夫も求められています。


「この世でもよく、あの世でもよい」

空爆するお金があるのなら、ワクチン接種に使ってください。
打つべきはロケットやミサイルではなく、ワクチンです。

立てるべきは、自分たちだけの権益や正義を守るための壁ではなく、世界の津々浦々に届く集団接種によるコロナウイルスを封じ込める免疫の壁です。


来世に託す前に、まだまだやれることはあるはずです。

当ブログの読者の皆様に、そして信者であるなしにかかわらず、世界の一人ひとりに皆様に、慈愛あまねき、慈悲ぶかき御方のご加護と祝福がありますように。

イード・ムバーラク


お詫び

 お詫び

4月12日、ラマダーンのサウムの開始に関する投稿に、重大な誤りがございました。

さまざまな検索の結果が「夕方から」となっていたところから、ラマダーン月の初日を実際より1日後ろにずれたままで投稿してしまっておりました。

このような不正確な情報を投稿してしまったこと、そしてその投稿に従って、開始日をずらした方々に対しまして、心よりお詫び申し上げます。

なお、この誤りの罪は、ひとえに情報発信者にございます。参考にしていただいた皆様には、何の責任もありません。皆様の実直な決断によるものである限り、ラマダーンのサウムの有効性にも影響しないものと考えられます。アッラーは、すべてを御存知。

なお、日付と新しい月の確定方法を盛り込んだ訂正版を改めて投稿してございます。ご確認いただければ幸いです。

このような誤りが起きないよう投稿には、より一層の慎重さを持って臨む所存でございます。

改めまして心よりお詫び申し上げます。



2021/05/01

ラマダーンの「サウム」を「斎戒」と訳すことについて

ミツバツツジの花言葉:節制・抑制のきいた生活
少ない水の環境に耐え見事な花を咲かせることに由来するという


ラマダーンは断食か?

 今年のラマダーンも後半に入った。昨年に引き続きコロナ禍で信徒同士のイフタール(日没後の断食明けの食事)もままならない日本でのラマダーンである。

ラマダーンとは、何かと問えば、断食のことだと答えが返ってきそうだが、正確を期していえば、ラマダーンとは、イスラーム暦第9月の名称であり、断食は、その第9月の間に信徒たちが義務として行う行為の一つである。

「断食」という言い方は、分かりやすいので、ラマダーンとは「断食月」であるという言い方もなされるが、断つものは食だけではない。口から入れるものは控えるので、水も飲まない。喫煙もしない。

怒らないし、争わないし、欲しがらない。男女の交わりもなしだ。

そうしたことすべてを表すのに、「断食」では、どうにも用が足りない。代表的な行為ではあるけれど、断食に限定されるものではない。


「斎戒」とは

そこで、しばしば「斎戒」の語が用いられる。筆者も長く、「ラマダーン月の斎戒」(最もシンプルにアラビヤ語でいえば、「サウム・ラマダーン」)を定型的な表現そして来た。

ところが「斎戒」という言葉が、日常生活になじみがない。しかも、その意味が、「祭祀(サイシ)などを行う者が心身を清浄にすること。」などであるため、祭祀でもないのに、「斎戒」となってはいよいよ何だか解らない。

(「斎」は心の不浄を浄める意、「戒」は身の過ちを戒める意)飲食・動作を慎んで、心身を清めること。」(『広辞苑』)との説明の「飲食・動作の慎み」は、「サウム」の語にだいぶ重なっているかもしれない。

しかし、「斎戒」に「断食」ほどの分かりやすさはない。ただでさえ訳の分からないものと敬遠されがちなイスラームである。そこへもってきての「斎戒」。それならば、いっそ断食としてしまった方がよいのかという気にもなる。

ところが、「断食」とだけしてしまうと、断食だけすればよいという誤解を生むことにもなりかねない。そして、水も飲まないのですねと変に感心されたりもする。ムスリムの親たちの中には、食べなかったことのご褒美としてお小遣いを与える者たちもいる。

「斎戒」でも「断食」でも用が足りない。こういう時には、クルアーンが下されたアラビヤ語で「サウム」という言葉が、いったいどういう意味なのかから考え直してみると見えてくるものがある。


「サウム」とは

「サウム」には、一般的な意味もある。「節制、控えること、慎むこと」などである。その動詞形である「サーマ」が、アンという前置詞を従えると、「~を控える、慎む」という意味になる。

控えて、慎む。食べることも飲むことも、怒ることも、争うことも、欲しがることも。

そこにあるのは、徹底的な節制である。そうであるならば、ラマダーン月は、節制の月ということもできるのではないか。

しかも、決意をもって、これを行う。意志して何かをやり遂げることが人間に固有の行為であるとするならば、まさに、人間であることの証明にもなる。

誰かの役に立つとか、社会のためになるとかという形では、人間であることあるいは生きていることを実感するのは、難しいかもしれない。

ラマダーンの節制生活は、引き算だ。食べない。飲まない。怒らない。争わない。欲しがらない。。誰かのためとか社会のためとかに対して行う善行の足し算より先に、とにかく引き算。その引き算で生じた1か月間の「差」が、最終的には全体の「和」につながるという考え方だ。

今風に言えば、ラマダーンのサウムによって、一食分は抜くことになるので、食品ロスを減らすことによるSDGsの実現にもつながりうる。


日没とともに断食は解かれる

ラマダーン月の節制は、日々更新される。この点が実はポイントである。

日没を迎えると、断食をはじめとする節制生活は解かれる。その時の食事が断食状態を破るという意味のイフタール。一滴の水、一粒のナツメヤシが、身体にしみわたり、生きていることを実感できる瞬間だ。神に感謝。そして今日もがんばれた。今日もがんばったと、自分を確認する。

そのイフタールだが、家族のみならず、信者どうし、ときには、信仰を超えた友人たちも交えて、行うことが多い。イフタールを共にして、神への感謝と生きている実感と喜びを共有する。忍耐を共にした者同士だからなおさら、絆が一気に深まる。

それだけにコロナ禍が、サウムの効果に与える影響は、深刻だ。それは、マグリブ後にも節制を要請する。とはいえ、この節制生活は、信者であるなし、特定の信仰のあるなしにかかわらず、世界中が要請されている。


「個」であることを見つめなおす

言葉をばらばらにすることによって、言語が異なる者同士のコミュニケーションを難しくしたのがバベルの塔の話だとするならば、コロナの話は、人々に、たとえ同じ言葉をしゃべっていたとしても、あるいは、異なる言語を理解していたとしても、まずは一人ひとりがその指紋が異なるように互いに異なる個であることを、教えてくれてはいないか。

そうであればこそ、既存の「われわれ」という括りを超えて、労わり合い助け合えるというものではなかろうか。

モーゼの共同体とか、イエスの共同体とか、ムハンマドの共同体とか、あるいは、国家とか民族とかイデオロギーとか、階級・階層とか、あるいは、性差といったことまで含め、そういったものの檻に幾重にも閉じ込められていた「小さなわれわれ」。

コロナ禍のイフタールは、そういったことについて考えるチャンスにもなっているように思える。

残り半月を切りました。この月にこの地上で節制生活を送っているすべての人々の神のご加護と祝福と平安がありますように。




2021/04/13

朗報:業務スーパーでサウジ産UAEパッケージのナツメヤシを発見!

 


ラマダーン直前に、嬉しすぎる発見です。

業務スーパー城山店でサウジアラビア原産(包装はアラブ首長国連邦)のデーツが販売されていました。

小粒のホダリー種。昔懐かしいミルキーの味も感じられるあっさりした甘さで、いくつでも食べられます。おいしいだけでなく、他のデーツにもましてミネラルも豊富で、身体も喜びます。

500グラム入りで538円は、ラマダーンのこの時期には有難いばかりの価格だ。

2021年ラマダーンの開始日について(改訂版)

 

西暦2021年のラマダーンはいつから?

一般に国際的に受け入れられているイスラーム暦によれば、4月13日(火)からです。手元のイスラミックファインダーのイスラーム暦カレンダーにおいても、ヒジュラ暦1442年のラマダーン月は、西暦2021年4月13日(火)からとなっています。

ただし、ヒジュラ暦の新しい月は前月の29日の日没時に、糸を引いたような極細い月が観測されれば翌日から、観測されなければ、翌々日から始まります。

いずれにしても、西暦のカレンダーの前日の日没後以降にヒジュラ暦の新しい月が始まります。よってラマダーン月の実際のスタートも前日、つまり西暦2021年4月12日の日没後以降になります。


観測されなければ、翌日からのスタートになる

当然のことながら、観測は天候状態に左右されます。したがって、その細い月が観測できなければ、ラマダーンの開始も一日後ろにずれることになります。日本で観測できない場合、マレーシアに合わせることが多いのですが、トルコのように、観測の結果にかかわらず、暦通りにラマダーンを開始する国もあります。


今年のラマダーンの断食を始めるのはいつから?

そのごく細い月が無事に観測されれば、今年は4月13日(水)のファジュル(日出の約1時間半前の時刻)からになります。この1か月は、その時刻から日没までの間、食べ物も、飲み物も口にせず、欲望を抑え、怒らず、慎み深く過ごします。


開始日は国によって異なることも知っておこう

ヒジュラ暦は、国によって1・2日ずれていることがあります。たとえば、バングラデシュ。日刊新聞の本日(4月12日)の日付は、シャアバーン(ラマダーンの前の月の名称)28日となっています。パキスタンの科学技術省のイスラーム暦においても本日の日付は、バングラデシュと同様シャアバーン月の28日です。


決めてから行うことが重要

ラマダーンの節制生活は、信者だけでなく、すべての人に開かれています。どなたでも、この節制生活に参加することが出来ます。

たとえ1日でも、試してみることができます。そのときには、「今日は、サウム(節制生活)を行う」と心に決めてから、お試しください。

決めた通りにできないことに悩まされる日常を過ごしていたとしても、食べない、飲まない、怒らない、争わない、欲張らないなどという形の消極的で控えめな方法で「決めたことをやり遂げた達成感」を味わうことができるはずですので。

2021/04/05

呪いの言葉が聖典にあっても大丈夫な理由:『聖典クルアーン』「中傷者章」をめぐって


「ワイルン」『聖典クルアーン』「中傷者章」の始まりの言葉である。

「中傷者章」のこの第一文は、不定名詞から始まる文章であり、それは、文法的な区分に従えば、「ドゥアー」(祈り・願望)を表す形でしかないことは、認めざるを得ない。

 

しかしながら、「呪われてしまえ」とは、何とも穏やかでない。そのことは、あくまでも個人的な思いではあるけれど、日本語の訳を見ても、あるいは、アラビヤ語の字面を見ても変わらない。

しかも、それを幼少の時分から、暗記する。とりわけ、アラブ圏以外のムスリムの子供たちは意味を知ることもなく、この人を呪う言葉を暗記する。個人的な感想ではあるが、何とも心が痛む。


しかしながら、少なくとも信者たちにとってクルアーンは正真正銘の神の言葉なのであるから、神の言葉を覚えることが悪であろうはずがない。この矛盾をどう解決するのか。



「呪われてしまえ」を、自分に対して向けられた戒めの言葉として読むのである。人々に対して誹謗・中傷を行えば、アッラーからの呪いが降りかかると。



願望文の発話者は、この場合、アッラーである。アッラーの願望が怖いのは、「有れと言えばすなわち有る」御方の願望だからである。願望と存在の間に隙間がない。すなわち、アッラーが中傷者を「呪う」と言ったら、呪いがかけられるのである。



それは、身の毛もよだつ恐ろしさだ。



「ワイルン」も恐ろしいが、その名宛人の中傷者も半端ではない。フマザティン・ルマザティン、日本語の中傷者ではとても用が足りない。誹謗中傷をし続けている、誰が何といおうと口を開けばお構えなしの誹謗中傷だ。しかも、金勘定ばかりしていて、自分の財産が自分をこの世に永遠に生かしてくると思っているというのだから、これも手が付けられない。そんな人は地獄に落とされるということである。



これだけ徹底した人はまれなのかもしれないが、逆に、他人を誹謗・中傷すること、お金を夢中になって集めて数えてしまうこと、金さえあれば何とでもなるとついつい、気が大きくなることであれば、身に覚えのない人は少ないかもしれない。



そのときに、アッラーの呪いと、心の中にまで入って自分を焼き続ける地獄の火を自分の意識の中に焼き付けておく。そのことによって、これらの聖句は、自分自身に対する強烈な戒めになりうるのだ。



「不定そのもの」がまさに不定に漂う中に縛られているような世界で呪いの言葉などかけられたのではたまらない。それに対してこちらは、確固とした存在(たとえそれがとらえられないような茫漠としたものであったとしても)に、テクストという形で「不定的なるもの」を極力許さない形で管理された世界での「ワイルン」なのである。



 つまり、究極にして唯一の主、慈悲深く慈愛あまねくアッラーからの注意喚起。まさにこれに優る注意喚起はない。



この啓示は、アッラーから、そうはなってくれるなよという意味での「ドゥアー」なのかもしれない。



そう解すれば、ラフマーン・ラヒームとしてのアッラーのあり方と合致するし、

「私は、呪いの言葉を浴びせてくる者に対して、呪いの言葉ではなく、ラフマをかける」と言ったと伝えられるムハンマドの言葉がいっそう沁みてくるというものだ。



アッラーのドゥアーに、ムハンマドを範として応えられるのか。

そこには、信仰を異にする者をも包み込むような大きな愛があるはずだ。

「愛はすべてのとがをおおう」(『旧約聖書』箴言10:12)

アッラーフ・アアラム

 

奥田敦

2021年3月25日

自由意思という檻

1.「行為は意志による」というハディースがある



これまで、このハディース(アッラーの御使いムハンマドの言行を伝える伝承)を行為規範の根拠として、つまり、「行為とは意志によって行われるものであり、意志によって行われた行為は、その人のものとして、ルールがある場合には法的な責任を負わされる」と読んできた。

ハディースは、イスラーム法において聖典クルアーンと並んで不易不動の法源をなすが故に、行為は意思によるという考えはイスラーム法の基本原則の一つと見ることができる。そして、もちろん、この意志主義とでも呼ぶべき(法律用語としては「意思」主義)は、近現代の社会規範の柱をも形成している。社会関係の動因をなす行為は原則として「意思」によって行われるものであると。

意志は決意や決心と結びつくような強い思い、意思は、心に決めたというほどの深さとは必ずしも関係のない考えや思い。法的に言えば、意志は意思に含まれることになる。[1]

自由意思に従って、職業を選択し、働き、契約を行ない、物を所有し、職業を選択し、住む場所を決め、旅行もすれば、買い物もする。人と付き合い、恋愛をし、将来を誓い合って、結婚をしたかと思えば、離婚もする。

そうしたもろもろの「意思」「意志」「決心」「決意」は、しかし、残念ながら、大概はうまくいかない。よいと思って就職した先が倒産する。首切りにあう。最高のコスパを見込んで買った商品がすぐに故障する。無料の文字に踊らされて結んだ契約が無料期間を過ぎたら割高な料金の設定になっていた。寝に帰る場所としてパワーマンションを購入したとたんにコロナ禍の在宅テレワークで手狭で息苦しくて仕方ない。上がると思って買った株がすっかり暴落、手放した途端に金余りの資金流入で高騰。。

そのときにはそれなりに考えて決めたとしても、結局、思慮が足りなかったと後悔する。

夏目漱石『夢十夜』第7夜の「自分」もそうだ。あまりのつまらなさ、解消を見通せないつまらなさから入水を図るものの、(「不定そのもの」による一人も殺さないセーフティーネットの存在はこの際さておくとして)もう取り返しがつかない。

「やっぱり乗っている方がよかったと始めて悟りながら、しかもその悟りを利用することができずに」という状況である。

やらかしてからでないと「悟り」を待つことのできない「決心」。困ったものだが、これが「自分」の現実。つまり、決心であろうが決意であろうが、人間の意思は当てにならないのである。

人間はこんな「決心」もできてしまう自由意思の虜なのだ。





2.悟りを得れば、自由意思の言いなりになどならないのではないか。



「自分の心に頼む者は愚かである」(箴言28:26)と旧約聖書は言う。

「思慮ない者よ、悟りを得よ、愚かな者よ、知恵を得よ」(箴言8:5) とも。



宗教を否定する「近代」にあって、これらの言葉はまともに取り合ってもらえない。それこそ空しい状況である。「知恵」を「悟り」をと呼び掛けても、心に頼む人々、そして、それによって儲ける人々、儲ける人々にとって人々の悟りは禁物だ。悟られたらおしまい。愚かなままに留めおくために必要なコト。心を動かし続けるもの。頼れるのは、エンターテインメント。喜怒哀楽の追体験として、ときに陳腐でさえある氾濫する物語。
近代という時代は、愚か者を量産する。


楽しいことならまだよいかもしれないが、心がくたくたに疲弊することも生じうる。1886年にフロイトが一般開業医としてヒステリーの治療を始めた。精神分析学の曙光である。心に病があり、それは治療できるものと位置づけられるようになる。心の病。人々のストレスが臨界点を超えたということであろうか。当然の帰結と言えば当然か。

そんな病理を構造的に生み出すような時代に、自己責任論、何でもかんでも自分の意思のせいにする考え方はそぐわない。たしかに、自由権を得るために多くの血が流された。ようやく勝ち取った自由権かもしれない。しかし、自由になってみると、こんどはその自由に翻弄される。自分の意思があまりに頼りない。自分を裏切る自分、自分にがっかりさせられることもしばしばだ。



3.この意思の檻から解放されるために:悟りと知恵



すべての行為は意志によるという言明を「あの行為は意志によるものだった」と単なる叙述として読んでみるというのはどうであろうか。

たしかに「意思」によって行為はなされる。誰であっても、思うところというのはある。思うところは人それぞれである。アッラーの道のためにとマディーナに移住した者もいれば、結婚をしようと移住した者もいる。

「意思」によらなければならないとか、「意思」によって行われるが故に意思の持ち主がその行為の責任を負わなければならないといった規範的な意味をシャリーアの体系は読み取ろうとするが、立法者たるアッラーと、来世の存在が明確な体系(それらはしばしば恣意的に用いられてしまうのだが)。それに対して、近代の意思主義では、すべてを拾い、最後まで寄り添うような立法者の存在も、遂げられなかった思いが実現される最後の日のようなものも想定されてはいない。


思わぬことを思ってみる、思うこと自体を止める時間を作ってみる。行為は意思によるのかもしれないが、人間は24時間意思するものにあらず。自分が思っていることがすべてではない。主の知を知る努力を怠らないこと。主と向き合う時間を作ること。不定そのものから適切に私たちの在り方を引き出すためにも、究極的な存在が存在することを想定し、人間の意思では到底及びもつかない、必然と存在が一体となっている世界、つまり運命によって動かされる世界を前提としてみれば、意思主義の檻の鍵は外れてくれるかもしれない。 

奥田 敦

2021年3月25日




[1] 意志は決意や決心と結びつくような強い思い、意思は、心に決めたというほどの深さとは必ずしも関係のない考えや思い。法的に言えば、意志は意思に含まれることになる。

あえて語らぬ/あえて語りぬ

 

1 沈黙

コロナ禍にもかかわらず、現地に滞在しながら日本語教育を続ける友人から、夏目漱石『夢十夜』の第7夜のアラビヤ語訳を送っていただいた。なんでも、この作品に関心を持った受講生たちとともに作成したという思いのつまった翻訳だ。

この第7夜は、西洋に向かう客船から、投身自殺を図る「自分」が入水前の船上の状況から入水の最後の瞬間の心情までが描写されていて、いろいろなことを考えさせてくれる小品である。中でも個人的には、甲板の上に出てひとり星を眺めている「自分」のところにやってきて「天文学を知っているか」と尋ねた異人とのやり取りが気になる。

 

「自分」は、「つまらないから死のうとさえ思っている。天文学など知る必要がない。黙っていた」のであるが、異人は、金牛宮の頂にある七星(北斗七星)の話をし、「そうして星も海もみんな神の作ったものだと云った」のであり、最後に自分に神を信仰するかと尋ねた。」「自分」は、空を見て黙っていた」という。

 

清朝からの引き上げ宣教師が多数乗船していた時代である。しつこい宣教師に絡まれたのだし、宗教など信じるに値しないものでもあるのだから、無視するような態度は当然であるという解釈[1]もあれば、耳を傾けていれば、無限の後悔と恐怖を抱いて黒い波の方へ静かに落ちていかずに済んだのではないかいう指摘[2]もある。

 

確かなことは、「つまらないから死のうとさえ思っている」ことに、注意を払おうとしない異人の姿勢であり、その言葉が自死を思いとどまらせるような働きとは無縁であったということである。

ここで、アラビヤ語の訳を見てみよう。「神」の訳である。「神の作ったもの」の部分も、「神を信仰」の部分も、神は「アッラー」と訳されている。ここに登場する異人は、おそらく、イスラーム教徒ではない。もしもイスラーム教徒であったのならば、「アッラーを信じるか」という問いになっていたかもしれない。

しかし、「海も星もすべて神が作った」「神を信じるのか」というときの「神」とはいったい何なのか、もとより会話として成立していないのではないかと思う。

 

神を信じるかと聞いてくるものがいるかと思えば、若い女の引くピアノに合わせて二人きりの世界で唱歌を唄う背の高い立派な男の変に大きな口(こういう時の口は確かにえげつなく大きく見える)。世の中に何かを見つけようとしている「自分」がますますつまらなくなるには十分な状況である。しかし、それが、いやそれも含めたもろもろが「とうとう死ぬことに決心」するに十分だったとは思わない。そのことは、本人がいちばん知っていることとだ。甲板から自分の足が離れて船と縁が切れたその刹那に、急に命が惜しくなっているからだ。

 

そこで初めて悟る。「何処へ行くんだか判らない船でも、やっぱり乗っている方がよかった」と。「しかもその悟りを利用することが出来ずに、無限の後悔と恐怖を抱いて黒い波の方へ静かに落ちて行った」のである。

 

2 何かを遂げないと死ねない!?

 

7夜の夢はここで終わる。つまらないことぐらいで、行く先のわからない船に乗っていることぐらいで死ぬと後悔すると教えてくれているのであろうか。つまらないこと、目的のわからないことばかりの現実の中、断とうとすればそれはそれでまた無限の後悔と恐怖に苛まれる。夢の中の話なので、目覚めれば、現実を生きることになる。なんとも後味の悪い夢である。

無限の後悔と恐怖とは、具体的に何を指しているのであろうか。キリスト教徒やイスラーム教徒であれば、神の意志に背いて自らの命を絶ってしまったことに対する後悔と、彼を待ち受ける地獄に対する恐怖ということになろうが、漱石は、「無限の後悔と恐怖」とだけ云う。

 

その自分が静かに落ちて行ったのが「黒い波の方」だが、地獄より奈落と重ね合わせることのできる表現であろうか。こうした状態で船から飛び降りれば、死ぬことは間違いなく、「自分」は少なくとも夢の中で死んだと解するのが妥当であるかに思えるのだが、少なくとも漱石は「死んだ」とは一言も云っていない。もとより、夢の話である。

 

ところで、日本語の「死ぬ」という言葉は、元来、「生命が無くなる、息が絶える」という意味の言葉ではない。井筒俊彦が金田一京助の研究[3]から紹介するところによれば、古代の日本語では、「命が無くなる/息が絶える」という事態に対してそのことを直接指す言葉を伏せて、「し--る」(つまり、完全に何かをやり終える)という言葉を使って表していたと言う[4]

生命が無くなる、命が絶えるという忌むべき状況に対しては言葉を伏せるのが、古代の日本語の世界である。

 

「死」に限らず忌々しきことはあえて言語化しない。言語化すれば、それがやがて必ず降りかかってくるからだ。井筒は『言語と呪術』の中で『万葉集』から引用する[5]

 

「朝霧の乱るる心言に出でて言わば忌々しみ」

 

悲しいとき、ひとはその悲しみを心に忍ばねばならない。さもなくば、何か恐ろしいことが必ず起きる。

 

3 天つ神も占い頼み

言語化しなかった例として思い出されるのが、「神」である。和辻哲郎の「天つ神」という言葉についての指摘である。「イザナギ・イザナミの2神が、最初の国土創造に失敗したとき、天つ神の所へ帰ってそれを報告し、再び天つ神の命を請うた」[6]。そのときの天つ神たちによる命令の仕方が驚きだと和辻は言う。「「布斗麻邇爾卜相而」指令を与えたのだ。つまり、占卜によってやり方を見直せという指令である。

 

和辻は言う。「占卜によって知られるのは不定の神の意志であるが、天つ神にとっての不定の神とは何であるか。天つ神の背後にはもう神々はない。しかもこれらの神々がなお占卜を用いるとすれば、この神々の背後になお何かがなくてはならぬ。それは神ではなくしていわば不定そのものである。」古の意ばえは究極者を何々の神として固定することはしない。

 

「すなわち最後の天つ神たちさえも不定者の現われる通路であって究極者ではない。究極者を神として把捉しようとする意図はここにはないのである。」(『古事記伝』4,225頁)

 

さらに和辻は宣長を引用する。「今此天津の卜へ賜ふは、何神の御教を受賜ふぞと、疑ふ人も有なめど、其は漢籍意(からぶみごころ)にて、古(いにしへ)の意(こころ)ばへに違へり」ちがへりそうう語句へ給ふは」

 

天つ神のその先に広がる「不定そのもの」の世界。そしてその「不定そのもの」には名前を付けない。決して「〇〇神」などと呼ばない。そもそも「神」でさえないのだから。そのままにしてある、そして、不定そのものであるため、そこには、言葉でとらえられるものは何もない。しかし、古の神々でさえ占いで尋ねようとする何かが確かに存在するのである。

 

一神教の完成形態たるイスラームとの対比で言えば、この「不定そのもの」にあえて定冠詞付きで「神」の名を与えたのがイスラームということになる。これに対してあくまでも「不定そのもの」であり「無名」のままに留めおいた日本神話の世界。そしてそのことは現在に至るまで引き継がれている。日本の宗教は、多神教と信じられているが、しかし、「不定そのもの」の一神教という見方も可能なのである。

 

 

4 死ぬから空しい、死んでも空しい

「神を信じるか」と一神教の信者が問うときには、「不定そのもの」としての「神」への信仰の有無を問うているのだが、「神」を信じるかと日本語の世界で問われたときには、「不定そのもの」の手前に位置する神、あるいは、不定そのものからは切り離された形で存在するキリスト教の神やイスラームの神が想起されてしまう。

 

「不定そのもの」は、「不定そのもの」なのであるから、完全に伏せられており、「神」という言葉から、「不定そのもの」は想起できないのである。「神を信じるか」という問いは、残念ながら、「不定そのもの」にまでは届かない。

 

神が作ったと言われると、神でさえ占卜によってつくったことを知っている者からすれば、なんとも胡散臭い話だ。

 

7夜の「自分」と異人のかみ合わない会話。実は何も伝わっていない。したがって、そこに「つまらなさ」を埋めてくれるような何かがあるはずもない。繰り返しになるが、「神」という言葉のせいで「不定そのもの」はどこかに失せてしまっている。異人はと言えば、星も海も自らが支配したかのような意気軒高。そして蘊蓄の嵐。そもそも行先はわからないし、何のために乗っているのかもわからない船。黙るしかない。何かをやり遂げようなどという気分ではない。

 

神も伏せるし、死も伏せる。夢だから覚めるけれど、果たして夢でなくても、日本語の世界で人は死ねるのであろうか。何かを完全にやり切らなければ死ぬことはできないと呪われているような、日本語の「死」。あの世がなくても、日本語の世界では、死後も死ねないのだ。

 

死んでしまえば、すべては無に帰し、忘れ去られてしまうのだから空しいとコヘレトは言った(『旧約』「伝道の書」)が、『夢十夜』の「自分」の空しさは、死んでみても同じではないかと思えるような空しさ、あるいは、たとえ死んでも死に切ることさえできないと思えるような空しさ。そんな空しさを黒い波を目前にした「自分」に感じることはできないであろうか。

 

それは、飛び込んだことに対する後悔というより、何もやり遂げることがなかったことに対する後悔か。人の世が「とかく住みにくい」のは、幾重にも呪詛に縛られているからか。この世もあの世も混然一体とした無境界の世界。

 

「自分」が抱いたのは、生きているのか死んでいるのかわからない状態に対する捉えどころのない恐怖と、飛び込んだところで死に切れていない自分では何も変わらないのにという後悔だったのかもしれない。

 

奥田 敦

2021320



[1] https://ameblo.jp/kimi-nakamura-ken1102/entry-11215250719.html

[2] https://blog.goo.ne.jp/kamisanbi/e/80a6369a24f5e7f9aa470f9fbd8967d0

[3] 金田一京助「規範文法から歴史文法へ」『日本語の変遷』講談社学術文庫901976年。104頁以下。「例えば、『死』は人の恐れ忌むことなので『逝く』『みまかる』『無くなる』のような語を生じたが、『死ぬ』という形そのものさえも、実は換喩で本当にもとの語は何であったかわからない。(中略)その『死ぬ』の『死』は、実は『為」(し)であって、「死ぬ」の「ぬ」は『逝ぬ』(いぬ)である。すなわち『死ぬ』は『為逝ぬ』(しいぬ)というだけで、その意味は、直接に『死去』ということを言うのを略して、『してしまいました』で、『死去してしまいました』を聞かせたのが起こりであるらしい。」

[4] 井筒俊彦『言語と呪術』安藤礼二監訳、小野純一訳、慶應義塾大学出版会、20189月。41頁以下。

[5] 井筒俊彦『言語と呪術』安藤礼二監訳、小野純一訳、慶應義塾大学出版会、20189月。44頁以下。

[6] 『和辻哲郎全集』第1262頁。以下、和辻からの引用は同箇所。

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