2020年8月15日土曜日

コロナ禍による観光業の構造転換期に新基軸の観光教育の真価が問われる

コロナ禍で先行きが見えない観光業界。就職内定取り消しのニュースなど聞くと、観光学科の存在意義自体を問う声も出てくるのかもしれない。

たしかに、インバウンドをはじめこれまで右肩上がりが前提となっていたものが、まったくあてにできない状況が生じてしまっている。

とはいえ、人が旅することをやめることはなさそうだ。外出を自粛するのか、GOTOトラベルキャンペーンを利用して旅行に出かけるのかという選択肢の中でも、一定数は、GOTOする。ワクチンが開発され、効果が確認されるようになれば、世界的な旅行ブームが訪れることさえあり得ない話ではない。

 

もちろん、GOTOトラベルの政策としての有効性を疑問視する声があることは事実だ。1兆3500億円の予算をすべて使いきったところでキャンペーンは終了。その経済規模は、18年の観光消費額の1割程度。しかも、補助があるならという類の高級志向で、LCCや中小の宿泊業者は恩恵にあずかれないどころか一層の苦境に追いやられる。「進むも地獄、退くのも地獄」(日経ビジネスコラム、2020/7/28 2:00 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO61827530S0A720C2000000/)というGOTOトラベルに対する指摘は見逃せない。

 

しかしながら、人は、この政策の成否にかかわりなく旅を続ける。旅の形の一つであり、旅行会社が提供する商品としての旅行でもある「ツアー」の語源が、工場労働者たちの休暇に行われる旅行であったため、旅は余暇活動の一つに分類されることが多く、不要不急の外出の代表選手のような扱いを受ける。

しかしながら、人は休暇の活動としての旅行を行なう以前から、旅してきたし、旅人との交流の中から、自分たちの世界を広げても行った。たとえば、柳田國男によれば、「「たび」という言葉が「たぶ(=給う=下さい)」という村人への「交易の要望」から派生し定着したもの」であって、旅とは「ある種の交易として成立したという(柳田、1931:457)。」(田中大介「柳田国男の交通論」2006、
https://www.jstage.jst.go.jp/article/soshioroji/51/2/51_57/_pdf

 

そもそも人生自体が旅になぞらえることもあり、余暇(レジャー)活動の一つには収まりきらない意味を含んでいる。

そこにあるのは、異なる文化との出会いの中で人生を豊かにしていく旅のありようだ。

一つの価値観、一つの正義にとらわれて身動きが取れなくなるのではなく、どれくらい自分の中に異文化を取り入れられるかが、人生100年時代を生きていく知恵をもたらすのである。

 

異なる文化、つまり異文化と聞くと、外国の文化が想起されるかもしれないが、自分たちの身の回りをちょっと見渡しただけで、異文化に満ち溢れていることに気づく。結果を性急に求めるタイプの人もいれば、結果が出るまで待ち続けられる人もいる。独裁的な組織やリーダーによるトップダウン型の支配を好む人もいれば、自由と民主主義を基調にするグラスルーツ型の協治を好む人たちもいる。

 

異なる文化の人々が、それぞれに優位性を主張すると、間違いなく争いになる。昨今の国際情勢を見ればわかるように、政治の場面での異文化衝突は、所詮は、力によって制圧され、強きが弱きをくじいて終わるしかないかの様相を呈する。

 

 

そんな時代だからこそ、観光が必要なのだ。自文化中心主義に凝り固まった頭をほぐし、他者を受け入れることを学ぶ。ちなみに、筆者の担当する相模原ビジネス公務員専門学校観光学科の「観光と文化」では、異文化理解の基礎とスキル学ぶ。留学生にも好評の科目だ。

 

日本人にとって、明らかに異文化の一つに数えあげられるのが、イスラームやムスリム(イスラーム教徒)ではないだろうか。八百万の神の世界からすると唯一神教の世界は対極にあるし、豚肉を食べない文化も理解しがたい。しかし、それが圧倒的に異文化であるとするならば、むしろこれを機会に学びに行く。

文化を象徴するものの一つが言語であるとするならば、彼らの聖典の言葉アラビヤ語を、あえて学びに行く。日本語とは語順が面白いくらいに逆。思考も逆ならものの切り取り方も逆。説明も説得も逆であることを意識する必要がある。アラビヤ語の達人になろうというのではない。異文化対応の達人を目指そうということだ。つまり、極端に違うものを、異文化の受容の振れ幅の中に入れておけるだけの教養と彼らに対するおもてなしのスキルを身に着けようというのが、相模原ビジネス公務員専門学校観光学科の狙いの一つだ。

 

インバウンドがストップしている現状において、ムスリム対応などその必要はないと多くの方が思うかもしれない。「訳が分からない」と。。しかし、実際はその逆。日本のムスリム社会は、世界中の多種多様なイスラーム文化が混在する博物館状態にある。

したがって、ムスリムに対するおもてなしのスキルは、マイクロツーリズム需要を受け入れる際にも必ず必要になる。各地の観光協会の職員各位にあっては、これを機会に、さがみはらビジネス研究所の一般講座でぜひチャレンジしていただきたいくらいである。

 

 

学校の宣伝のようになってしまっているけれど、続けさせていただくと、同校の観光学科は、おもてなしの基礎もないところへ「ムスリムおもてなし」だけを教えているように勘違いされる向きもあるかもしれない。

同校では、「観光概論」で観光に携わるための体幹をじっくり鍛え、就職に結びつきやすい専門学校の観光学科の3つの資格、日本の宿おもてなし検定、インターネット旅行情報士、国内旅行地理検定の取得を必須とし、さらにホテル検定などにもチャレンジできる体制を整えている。

さらに感染症と感染症拡大対策を学ぶ講座の準備も進めてもいる。

 

 AIとコロナで既存の資格が一方的に侵食されていく現状にあって、専門学校に求められているのは、逆説的ではありますが「非専門性」であるはず。つまり「専門性」が崩れてしまう時の変化への対応力。この頃様々に指摘されている苦境・苦難に遭遇した時に発揮できる「しなやかな力(レジリエンス)」だ。

 

観光産業の構造転換がその生き残りの条件になっていこうとする時代的状況の中、相模原ビジネス公務員専門学校観光学科は、新基軸を堅持できるのか、今こそその真価が問われている。

 

2020年6月14日日曜日

Not only "Black lives matter", but also "human lives matter" !

We don't need only "black lives matter", but also "human lives matter".


Please say, "Human lives matter".  Because as long as "Black" is used as symbol of being discriminated, Black might be continued to be related with discrimination.  It means discrimination won't go away, rather it is imprinted into peoples' mind.  If so, it must be repeated severer way than before as American history tells.


Please don't stop only claiming existing systematic discrimination.  We should demonstrate comprehensive integrated principle: human share common root, and whole human beings are as if sharing same body.  Please share pain both in body and heart, not angry. 


WE DO NOT NEED ANY FIGHT FOR SOMEONE'S JUSTICE, BECAUSE FIGHT FOR JUSTICE ALWAYS BRINGS ABOUT ANOTHER SEVERER FIGHT.


Please stop dividing the world into two contrasts; Black and White, Left and Right, Rich and Poor, Upper and Under, the heaven and the hell, Mu'min and Kaafir, etc. 
In the age hence everyone has his/her own identity, number of justice is same as number of people.

WE NEED COMPASSION i.e. OMOIYARI (in Japanese) FOR ALL EACH OTHER. 

2020年5月10日日曜日

いまさらだけれど、ラマダーンが人間であることの証明である件について

 目下、世界17.5億人のイスラーム教徒たちが臨んでいるラマダーン月の斎戒。様々な解説がなされるけれど、現象面からのアプローチが多く、しかも、一見とても奇異な文化的慣行ではあるのだけれど、様々な効用があるという指摘を行なって了解してもらうタイプが多い。

 
  イスラーム教徒にとっては当たり前すぎるために、彼らの口から語られることはなく、またイスラーム教徒以外の人たちからすると、自分たちが行うのではないために、見落とされがちな事柄がある。


 それは、ラマダーンのサウム(斎戒)が意思によって行われなければならないということだ。ラマダーン月が始まる際に、あるいは、斎戒を行なう日ごとに、「サウムを行なう」ことを決めてから実際にサウムを行なう。寝坊をしたからと言って日没になってからその日最初の食事をしたからといっても、斎戒にはならない。そこに、斎戒の意思はないからである。


 決めたことを行なう。「(すべての)行為は意思による」とは、アッラーの御使いムハンマド(彼の上にアッラーの祈りと平安あれ)の言葉であり、私たちの日常的な法律の世界においても、意思による行為には、契約であれ、犯罪であれ、責任が問われるが、意思によらない行為、たとえば故意ではない犯罪では、罪が問われないことが原則だ。


 とはいえ、行為は意思によるとは、当たり前のようでありながら、なかなかできなことでもある。たとえば、朝、今日中にやっておこうと決めたことが、先延ばしになる。よくあることだ。どうも、決めたことができないところに人は悩み心を砕く。これはもう、イスラーム教徒に限った話ではない。 人類に共通の悩みと言っても過言ではない。


 そこでラマダーンの斎戒である。イスラーム法では、斎戒者の意思による斎戒であることが、ラマダーンの必須の要件になる。つまり、ラマダーンの一か月というのは、意思したことをやり通す1か月なのである。


 意思したことをやり遂げる。達成感の源である。自由な意思をもち、それによって行為するのが人間だとすれば、 様々な誘惑を振り切ってそれをやり遂げるのは、人間にしかできない、もっとも人間的な行為だと言えないであろうか。


 しかも、斎戒で求められるのは、食べず、飲まず、怒らず、妬まず、欲しがらずと、すべて消極的な行為である。スポーツのトレーニングや、受験勉強、あるいはボランティア活動のような積極的な行為とは対照的だ。「~を行なわない」というだけで特別な能力や気持ちを必要としない。にもかかわらず、決めたことができたという達成感を味わうことができるのだ。


 さらに言えば、この達成感は、誰も傷つけない。傷つけないどころか、食べなかった1食分が誰かの口に入る。スポーツの大会や受験勉強とは違って、敗者がいない。全員が勝てるゲームになっている。


 この人間に固有の、もっとも人間的な行為を、信者全体で行なおうというのがラマダーンのサウムなのである。つまり、「決めたことをやり遂げる」という人間にしかできない実践なのだ。したがって、ラマダーンの1か月は、人間であることを証明する一か月ということになる。決めたことができるのを確かめる機会だと考えるならば、それを、イスラーム教徒の文化的慣行の地位に置いておく必要はない。


 「決めたことをやり遂げる」ことができるのを確かめ、自分を実感したいと考えるのは、むしろイスラーム教徒以外の人々ではなかろうか。「あの人たち」の文化ではなく、「みんな」の元気の源にもなりうるのが、ラマダーンの根源にある、人間全体に対するメッセージ、つまり、さまざまな違いはあってもまずは人間であることの教えなのである。

جناحك لحياتك

من أجل ماذا، الأجنحة؟ هل هي من أجل تغطية أم الطيور بها لأولادها، أو من أجل تغتية آباءها العجوزة فقط. لا تعرف الأفراخ أن الأجنحة من أجل الطيران بعد.


إذا كانت المسافة مع الناس قريبة جدًا ، يمكنك طي الجناح ولكن دون فردها. كلّا ما دام أن يُرمي الطعام في فمك، فلا تعترف وجود جناحك حتى.

ولكن ما دام بقاءك في المنزل فلا تستطيع اعتباف بوسع السماوات والأرض وما بينهما من الإمكانيات اللانهائية.


تُأمر حاليا مراعاة شديدة لمسافة اجتماعية حتى في المنزل. في الواقع ، قد تكون فترة التحضير للطيران حيث تتأكد وجود أجنحتك.


إذا كنت تطير في السماء ، فستعرف ما تحتاج إلى حمايته. إذن قد أعطيت جناحك من أجل طيرانك.
هيا بك طِر (أو طيري) بجناحك.

翼を広げて、飛べ!

翼は何のためにある?親鳥が雛を守り育むためにだけあるのか?雛はまだ知らない。それが飛ぶためにあるということを。

距離が近すぎると、翼をたたむことは覚えても、広げることをしなくなる。いや、翼があることにすら気づかない。飛ばなくてもエサが口に入ってくるからだ。

けれど、飛ばなければわからない。天がどこまでも広いことも、大地もまた広くて可能性に満ちていることも。

家の中でさえ、距離をとれといわれるこの時代。実は翼の存在を思い出し、飛ぶための準備の期間かもしれない。

空を飛んでみれば、守るべきものは何なのかもわかるはずだ。君の翼は、君が飛ぶために授けられている。

2020年5月4日月曜日

ماذا نقرأ ؟


قال تعالى: ( اقرأ بسم ربك الذي خلق). فالقراءة هي الأمر الأول من الأوامر على مستوى المصحف من عند الله. ولكن ماذا اقرأ ؟ هذا واضح بالنسبة لرسول الله _ص_، كما يقول المفسرون، اقرأ يا محمد القرآن الكريم.

بعد ألف وأربع مائة سنة من النزول،ما أمامنا هو المصحف، إذن ماذا نقرأ نحن الآن؟

المصحف هو كتاب مجموع الآيات المنزولة من عند الله إلى عند رسول الله محمد _ص_.

كما نعرف أن كلمة آية لها معاني أخرى، كما قال تعالى.

وَكَأَيِّن مِّنْ آيَةٍ فِي السَّمَاوَاتِ وَالْأَرْضِ يَمُرُّونَ عَلَيْهَا وَهُمْ عَنْهَا مُعْرِضُونَ (105يويف)


هناك آية غير محسوبة في السماوات والأرض. منها الشمس والقمر والنجم والجبل والبحر والنهر إلخ ولكن العالمون يمرون عليها ويعرضون عنها. الذين لا ينظرون لا يقرؤون.


ثم قال تعالى:
وَمَا يُؤْمِنُ أَكْثَرُهُم بِاللَّهِ إِلَّا وَهُم مُّشْرِكُونَ (106يويف)


فكثير من العالمين يؤمنون بالله ولكن هم مشركون. ماذا يحدث بهم ؟
إذا آمنوا بالله من خلال الآيات المنزولة عند رسول الله من دون نظرة الآيات المجدد من عند الخالق المطلق، هم كأن مؤمنين بالمصحف فقط، وهم تركوا وجود الله كالخالق. فإيمانهم له قد يكون ماكن الشرك.

ما الفقر عدم قراءة المصحف، بل الفقر هو مجرد قراءة المصحف، ولا يعرف ذلك معظم المسلمين.

فيجب أن نقرأ الآيات المنزولة والآيات المنظورة أو المشعورة، والجوات بين الناس لو ممكن، كدلائل وجود الله وخلقه اللانهاية.


لو أخذنا الآيات المنظورة أو المشعورة مع الآيات المنزولة في مصادر الشريعة الإسلامية، لنجعلها أن تخرج من الحصن العتيق بالاجتهاد الحقيقي فلا تنظم المسلمين فقط بل العالمين كافة. والله أعلم.

「読め」から始まった『聖典クルアーン』。読むべきは?

 至高なる御方は言う。《創造を行なったあなたの主の名前で読みなさい。》(凝血章1)
いちばん最初の啓示とされる聖句である。クルアーンの中でムハンマドに対する最初の命令は、「読め」だった。「読むこと」がクルアーンの最初の命令だったのだ。「何を読むか」については、啓示上明記はない。
 ムハンマドにとっては、注釈学者の解説の通り「読み」の目的物は、聖典クルアーンだったはずだ。その後このムハンマドに降った啓示は、口伝され異本を取り除いた後、3代目カリフ、ウスマーンの時代にまとめられ、現在にまで至る。アルムスハフ(書物)とも称される『聖典クルアーン』である。
 翻って、その聖句を1400年後に読むわれわれにとって、「読み」の目的語は、聖典クルアーンだけであろうか。
 アルムスハフの一つ一つの節を「アーヤ」というが、「アーヤ」には別の意味もある。その代表格が、「しるし」である。

وَكَأَيِّن مِّنْ آيَةٍ فِي السَّمَاوَاتِ وَالْأَرْضِ  (105يويف)  

天と地の間には、(アッラーの唯一性や神慮に関し)いかにも多くの印がある

ここに言われている「印」のことである。
こうした印について人々の反応は次の通りだという。


يَمُرُّونَ عَلَيْهَا وَهُمْ عَنْهَا مُعْرِضُونَ (105يويف)
かれら(人々)はそのそばを通り過ぎるのだが、それらから(顔を)背ける。

 太陽を見ても、月を見ても、星を見ても、山を見ても、海を見ても、アッラーの存在の印としては見ずに、そばを通っても通り過ぎ顔を背けてしまう。
 その次の聖句は、さらに示唆深い。

وَمَا يُؤْمِنُ أَكْثَرُهُم بِاللَّهِ إِلَّا وَهُم مُّشْرِكُونَ (106يويف) 
かれらの多くは、アッラーを多神の一つしてしか信仰しない。

 創造主たるアッラーの印を天と地に読まない人々は、アッラーを信仰していたとしても、多神信者の信仰になってしまうというのだ。

 創造主の創造は、日々続けられている、いや、瞬時に更新されている。この瞬時に更新される印を読まずに、クルアーンにしかアッラーの印を読まないのだとすれば、アッラーの印をあるムスハフの時点に固定してしまうことであり、アッラーの創造主としてのありようを無視することに他ならない。それは、アルムスハフには忠実であるかもしれないけれど、とても創造主たるアッラーの忠実な僕とは言えない。
 アルムスハフ教。アルムスハフが下された時点でアッラーの創造主としてのありようを止めてしまう教え。多神教の一つとされても仕方がない。
 
 かつて私は、大学の講義の中で、アルムスハフを読みもせず場合によっては存在さえ知らずに、空気ばかり読んでいる人々に対して、空気しか読むものがない貧困を指摘してきたが、どうやら、間違えていたようだ。
 アルムスハフだけを読んで満足することも大きな貧困なのである。読むべきは、創造主たるアッラーの存在の印すべてである。
 ムスハフとしてくだされたアーヤも、私たちの目の前を通り過ぎていく幾多の森羅万象も、そして人々の思いが織りなす空気も、すべて究極の一なる創造主の存在の印として読むこと。そうした時にはじめて多神教に絡めとられることのない一神教の次元に進むことができる。
 シャリーアが、イジュティハードを行なってもなお過去にとらわれてしまうのも、その究極の法源がアルムスハフとしてのクルアーンだからなのかもしれない。多神教徒も含めてすべての人々の法となるためには、単に慣習の法源的地位を引き上げるというのではなく、観察される印をアルムスハフと同等に法源に組み込む努力が必須となろう。
 そのためにも、我々にとってのキラーアの対象は、アルムスハフと天地の間の創造主の印、そしてできれば人々の空気ということになる。すべてを創造した主の名前によって読むのだから。(اقرأ بسم ربك الذي خلق) アッラーはすべてを御存知。

コロナ禍による観光業の構造転換期に新基軸の観光教育の真価が問われる

コロナ禍で先行きが見えない観光業界。就職内定取り消しのニュースなど聞くと、観光学科の存在意義自体を問う声も出てくるのかもしれない。 たしかに、インバウンドをはじめこれまで右肩上がりが前提となっていたものが、まったくあてにできない状況が生じてしまっている。 とはいえ、人が旅すること...