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2021/08/29

思い込みと決めつけが人の命を窮地に追い込む

「東京都若者向け接種会場(渋谷)に希望者が殺到。長蛇の列。結局抽選に」

「カブール空港に出国希望者が殺到。死者まで」

ここ数日、衆目を集める、この二つの事象だが、命を守るための行動が命取りになりかねないという点で共通している。コロナウイルス感染に対する恐怖、タリバンの暴力の標的にされることに対する恐怖。自分だけではない。家族もまた同様に危機にさらされる。

カブールでは悪夢が現実のものになってしまった。「ISIS-K自爆テロで200人を殺傷」。即座に米国は無人機による報復攻撃を行なった。

 

東京とカブール。両者に共通するのが、これらが政治的な判断のミスによって引き起こされたと言いうる点だ。見通しが甘すぎる。

市町村が行なう接種の予約が非常にとりにくい現状がある中、渋谷で、若者(16歳から39歳)を対象に行う予約なし接種である。なぜ、200回や300回の想定で接種を開始しようとしたのか。

そこには、若者は接種に否定的という決めつけがあったように思う。これまで、第5波の感染拡大の要因の一つとして、酒類の販売・流通業者とともに、非難の矛先を向けられてきた若者たちである。否定的な論調は、ネット上で言われていたことを地上波が増幅し、それを政府が犯人を仕立てるために使った。統計は取り方によって結果が異なるが、思惑にあったデータを使う。もっともらしさに納得させられる。政府に対する責任は追及されない。

アフガニスタンについても、同様のことが言える。新国家樹立から20年。曲がりなりにも民主主義が根付き、現地の治安は政府の警察機能によって保たれるから、米軍が撤退しても大丈夫という決めつけ。専制主義に対して自由・民主主義を守るのは力でしかないことは、歴史的にもまた昨今の東シナ海情勢を見ても明らかだが、その想像力が働かない。

 

そしていずれのケースにおいても、その政策を身体を張って現場で実施する人々が振り回される。医療崩壊により自分が倒れたときのケアが約束されていない現状、あるいは、どこでテロ攻撃に晒され命を落とすかもしれない現状。

その状況に晒されているのは、ワクチン接種を希望して集まった人も、国外に脱出しようと空港に集まった人々同じだ。彼らこそ、最優先で、大切にされるべきなのに。

そこに透けて見えるのが、政策決定者たちの思惑、あるいは彼らの都合だ。彼らが選挙によってえらばれる以上、選挙は、どうしたって無視できない。選挙、そしてそのためのわかりやすい実績作り、そんな言葉が浮かんでしまう。それらが決めつけや思い込みとタッグを組んで、人々が命を守ろうとする行為を、命の危機に晒すことになってはいないか。


しかし、決めつけや思い込みによって、意思決定が左右されてしまうのは、政治的な決定に限った話ではない。

•「すなわち真理とは、それが錯覚であること忘却されてしまった錯覚……なのである」(ニーチェ『道徳以外の意味における真理と虚偽について』)。
•つまりオリエンタリズムは、「錯覚の真理」

ニーチェに従えば、錯覚もまた錯覚であることが忘れられるほど繰り返されれば「真理」になりうる。

家族なら、パートナーなら、父親なら、母親なら、友達ならという種類の決めつけや思い込みはあまた存在する。

自分の考えを正論であると思い込み、他の考えに対して考えなおしたり、譲ったりしないと、判断の誤りどころか大切な関係を失うことにもなりかねない。

たとえば、父親としての理想を夫に求める。夫がその理想を共有し、自分を変えてくれて当然だと思う。父親としての在り方は千差万別であっていいはずだが、自分が理想とする理想の夫の中に、夫を縛り付けて、それへの変化を迫る。これでは、良好な関係が続くことは難しい。

思い込みにしろ決めつけにしろそれらは個人が行なうことだから、その段階では、単なる一個人の意見だが、SNSにそれが拡散され、ある程度の賛同を得たとき、真理的な、あるいは正義的なものへと格上げされていく。それがまた厄介である。思い込みたい自分が前提なので、その拘束力が格段に強くなるからである。

そんな状況の中へ、突然、剥き出しの真実が姿を現す。批判的だと目されていた若者たちの長蛇の列であり、 滑走をはじめようとする大型飛行機にしがみつく、国外脱出希望者の殺到である。

 

一つ確かなことは、万物は流転するということ。 ニーチェが言うように真理が解釈だとするならば、真理は人の数、状況の数だけあることになる。真理とはしたがって、変化であり多様性自体なのだ。

政治にしても、法にしても、またさまざまな制度にしても、その流転についていけていない。自分もまた同様である。

変化に鈍感、ステレオタイプによる決めつけも激しい。思考停止した瞬間から変化からはおいていかれることになる。決めつけで縛り付けたり、括りつけたりしていないかに心を致す。少しずつでもそのあたりの改善を続け、やがてそれを多様性を認め合える世界の構築につなげたい。

ワクチン接種においても、またタリバンにしても、人間は誰であれ、いかなる状況に置かれたとしても、命も人生もある一人の人として最優先に守られなければならない。人間は、コロナの奴隷でも、ワクチンの奴隷でも、タリバンの奴隷でも暴力の奴隷でもないのだから。

2021/05/01

ラマダーンの「サウム」を「斎戒」と訳すことについて

ミツバツツジの花言葉:節制・抑制のきいた生活
少ない水の環境に耐え見事な花を咲かせることに由来するという


ラマダーンは断食か?

 今年のラマダーンも後半に入った。昨年に引き続きコロナ禍で信徒同士のイフタール(日没後の断食明けの食事)もままならない日本でのラマダーンである。

ラマダーンとは、何かと問えば、断食のことだと答えが返ってきそうだが、正確を期していえば、ラマダーンとは、イスラーム暦第9月の名称であり、断食は、その第9月の間に信徒たちが義務として行う行為の一つである。

「断食」という言い方は、分かりやすいので、ラマダーンとは「断食月」であるという言い方もなされるが、断つものは食だけではない。口から入れるものは控えるので、水も飲まない。喫煙もしない。

怒らないし、争わないし、欲しがらない。男女の交わりもなしだ。

そうしたことすべてを表すのに、「断食」では、どうにも用が足りない。代表的な行為ではあるけれど、断食に限定されるものではない。


「斎戒」とは

そこで、しばしば「斎戒」の語が用いられる。筆者も長く、「ラマダーン月の斎戒」(最もシンプルにアラビヤ語でいえば、「サウム・ラマダーン」)を定型的な表現そして来た。

ところが「斎戒」という言葉が、日常生活になじみがない。しかも、その意味が、「祭祀(サイシ)などを行う者が心身を清浄にすること。」などであるため、祭祀でもないのに、「斎戒」となってはいよいよ何だか解らない。

(「斎」は心の不浄を浄める意、「戒」は身の過ちを戒める意)飲食・動作を慎んで、心身を清めること。」(『広辞苑』)との説明の「飲食・動作の慎み」は、「サウム」の語にだいぶ重なっているかもしれない。

しかし、「斎戒」に「断食」ほどの分かりやすさはない。ただでさえ訳の分からないものと敬遠されがちなイスラームである。そこへもってきての「斎戒」。それならば、いっそ断食としてしまった方がよいのかという気にもなる。

ところが、「断食」とだけしてしまうと、断食だけすればよいという誤解を生むことにもなりかねない。そして、水も飲まないのですねと変に感心されたりもする。ムスリムの親たちの中には、食べなかったことのご褒美としてお小遣いを与える者たちもいる。

「斎戒」でも「断食」でも用が足りない。こういう時には、クルアーンが下されたアラビヤ語で「サウム」という言葉が、いったいどういう意味なのかから考え直してみると見えてくるものがある。


「サウム」とは

「サウム」には、一般的な意味もある。「節制、控えること、慎むこと」などである。その動詞形である「サーマ」が、アンという前置詞を従えると、「~を控える、慎む」という意味になる。

控えて、慎む。食べることも飲むことも、怒ることも、争うことも、欲しがることも。

そこにあるのは、徹底的な節制である。そうであるならば、ラマダーン月は、節制の月ということもできるのではないか。

しかも、決意をもって、これを行う。意志して何かをやり遂げることが人間に固有の行為であるとするならば、まさに、人間であることの証明にもなる。

誰かの役に立つとか、社会のためになるとかという形では、人間であることあるいは生きていることを実感するのは、難しいかもしれない。

ラマダーンの節制生活は、引き算だ。食べない。飲まない。怒らない。争わない。欲しがらない。。誰かのためとか社会のためとかに対して行う善行の足し算より先に、とにかく引き算。その引き算で生じた1か月間の「差」が、最終的には全体の「和」につながるという考え方だ。

今風に言えば、ラマダーンのサウムによって、一食分は抜くことになるので、食品ロスを減らすことによるSDGsの実現にもつながりうる。


日没とともに断食は解かれる

ラマダーン月の節制は、日々更新される。この点が実はポイントである。

日没を迎えると、断食をはじめとする節制生活は解かれる。その時の食事が断食状態を破るという意味のイフタール。一滴の水、一粒のナツメヤシが、身体にしみわたり、生きていることを実感できる瞬間だ。神に感謝。そして今日もがんばれた。今日もがんばったと、自分を確認する。

そのイフタールだが、家族のみならず、信者どうし、ときには、信仰を超えた友人たちも交えて、行うことが多い。イフタールを共にして、神への感謝と生きている実感と喜びを共有する。忍耐を共にした者同士だからなおさら、絆が一気に深まる。

それだけにコロナ禍が、サウムの効果に与える影響は、深刻だ。それは、マグリブ後にも節制を要請する。とはいえ、この節制生活は、信者であるなし、特定の信仰のあるなしにかかわらず、世界中が要請されている。


「個」であることを見つめなおす

言葉をばらばらにすることによって、言語が異なる者同士のコミュニケーションを難しくしたのがバベルの塔の話だとするならば、コロナの話は、人々に、たとえ同じ言葉をしゃべっていたとしても、あるいは、異なる言語を理解していたとしても、まずは一人ひとりがその指紋が異なるように互いに異なる個であることを、教えてくれてはいないか。

そうであればこそ、既存の「われわれ」という括りを超えて、労わり合い助け合えるというものではなかろうか。

モーゼの共同体とか、イエスの共同体とか、ムハンマドの共同体とか、あるいは、国家とか民族とかイデオロギーとか、階級・階層とか、あるいは、性差といったことまで含め、そういったものの檻に幾重にも閉じ込められていた「小さなわれわれ」。

コロナ禍のイフタールは、そういったことについて考えるチャンスにもなっているように思える。

残り半月を切りました。この月にこの地上で節制生活を送っているすべての人々の神のご加護と祝福と平安がありますように。




2021/04/05

あえて語らぬ/あえて語りぬ

 

1 沈黙

コロナ禍にもかかわらず、現地に滞在しながら日本語教育を続ける友人から、夏目漱石『夢十夜』の第7夜のアラビヤ語訳を送っていただいた。なんでも、この作品に関心を持った受講生たちとともに作成したという思いのつまった翻訳だ。

この第7夜は、西洋に向かう客船から、投身自殺を図る「自分」が入水前の船上の状況から入水の最後の瞬間の心情までが描写されていて、いろいろなことを考えさせてくれる小品である。中でも個人的には、甲板の上に出てひとり星を眺めている「自分」のところにやってきて「天文学を知っているか」と尋ねた異人とのやり取りが気になる。

 

「自分」は、「つまらないから死のうとさえ思っている。天文学など知る必要がない。黙っていた」のであるが、異人は、金牛宮の頂にある七星(北斗七星)の話をし、「そうして星も海もみんな神の作ったものだと云った」のであり、最後に自分に神を信仰するかと尋ねた。」「自分」は、空を見て黙っていた」という。

 

清朝からの引き上げ宣教師が多数乗船していた時代である。しつこい宣教師に絡まれたのだし、宗教など信じるに値しないものでもあるのだから、無視するような態度は当然であるという解釈[1]もあれば、耳を傾けていれば、無限の後悔と恐怖を抱いて黒い波の方へ静かに落ちていかずに済んだのではないかいう指摘[2]もある。

 

確かなことは、「つまらないから死のうとさえ思っている」ことに、注意を払おうとしない異人の姿勢であり、その言葉が自死を思いとどまらせるような働きとは無縁であったということである。

ここで、アラビヤ語の訳を見てみよう。「神」の訳である。「神の作ったもの」の部分も、「神を信仰」の部分も、神は「アッラー」と訳されている。ここに登場する異人は、おそらく、イスラーム教徒ではない。もしもイスラーム教徒であったのならば、「アッラーを信じるか」という問いになっていたかもしれない。

しかし、「海も星もすべて神が作った」「神を信じるのか」というときの「神」とはいったい何なのか、もとより会話として成立していないのではないかと思う。

 

神を信じるかと聞いてくるものがいるかと思えば、若い女の引くピアノに合わせて二人きりの世界で唱歌を唄う背の高い立派な男の変に大きな口(こういう時の口は確かにえげつなく大きく見える)。世の中に何かを見つけようとしている「自分」がますますつまらなくなるには十分な状況である。しかし、それが、いやそれも含めたもろもろが「とうとう死ぬことに決心」するに十分だったとは思わない。そのことは、本人がいちばん知っていることとだ。甲板から自分の足が離れて船と縁が切れたその刹那に、急に命が惜しくなっているからだ。

 

そこで初めて悟る。「何処へ行くんだか判らない船でも、やっぱり乗っている方がよかった」と。「しかもその悟りを利用することが出来ずに、無限の後悔と恐怖を抱いて黒い波の方へ静かに落ちて行った」のである。

 

2 何かを遂げないと死ねない!?

 

7夜の夢はここで終わる。つまらないことぐらいで、行く先のわからない船に乗っていることぐらいで死ぬと後悔すると教えてくれているのであろうか。つまらないこと、目的のわからないことばかりの現実の中、断とうとすればそれはそれでまた無限の後悔と恐怖に苛まれる。夢の中の話なので、目覚めれば、現実を生きることになる。なんとも後味の悪い夢である。

無限の後悔と恐怖とは、具体的に何を指しているのであろうか。キリスト教徒やイスラーム教徒であれば、神の意志に背いて自らの命を絶ってしまったことに対する後悔と、彼を待ち受ける地獄に対する恐怖ということになろうが、漱石は、「無限の後悔と恐怖」とだけ云う。

 

その自分が静かに落ちて行ったのが「黒い波の方」だが、地獄より奈落と重ね合わせることのできる表現であろうか。こうした状態で船から飛び降りれば、死ぬことは間違いなく、「自分」は少なくとも夢の中で死んだと解するのが妥当であるかに思えるのだが、少なくとも漱石は「死んだ」とは一言も云っていない。もとより、夢の話である。

 

ところで、日本語の「死ぬ」という言葉は、元来、「生命が無くなる、息が絶える」という意味の言葉ではない。井筒俊彦が金田一京助の研究[3]から紹介するところによれば、古代の日本語では、「命が無くなる/息が絶える」という事態に対してそのことを直接指す言葉を伏せて、「し--る」(つまり、完全に何かをやり終える)という言葉を使って表していたと言う[4]

生命が無くなる、命が絶えるという忌むべき状況に対しては言葉を伏せるのが、古代の日本語の世界である。

 

「死」に限らず忌々しきことはあえて言語化しない。言語化すれば、それがやがて必ず降りかかってくるからだ。井筒は『言語と呪術』の中で『万葉集』から引用する[5]

 

「朝霧の乱るる心言に出でて言わば忌々しみ」

 

悲しいとき、ひとはその悲しみを心に忍ばねばならない。さもなくば、何か恐ろしいことが必ず起きる。

 

3 天つ神も占い頼み

言語化しなかった例として思い出されるのが、「神」である。和辻哲郎の「天つ神」という言葉についての指摘である。「イザナギ・イザナミの2神が、最初の国土創造に失敗したとき、天つ神の所へ帰ってそれを報告し、再び天つ神の命を請うた」[6]。そのときの天つ神たちによる命令の仕方が驚きだと和辻は言う。「「布斗麻邇爾卜相而」指令を与えたのだ。つまり、占卜によってやり方を見直せという指令である。

 

和辻は言う。「占卜によって知られるのは不定の神の意志であるが、天つ神にとっての不定の神とは何であるか。天つ神の背後にはもう神々はない。しかもこれらの神々がなお占卜を用いるとすれば、この神々の背後になお何かがなくてはならぬ。それは神ではなくしていわば不定そのものである。」古の意ばえは究極者を何々の神として固定することはしない。

 

「すなわち最後の天つ神たちさえも不定者の現われる通路であって究極者ではない。究極者を神として把捉しようとする意図はここにはないのである。」(『古事記伝』4,225頁)

 

さらに和辻は宣長を引用する。「今此天津の卜へ賜ふは、何神の御教を受賜ふぞと、疑ふ人も有なめど、其は漢籍意(からぶみごころ)にて、古(いにしへ)の意(こころ)ばへに違へり」ちがへりそうう語句へ給ふは」

 

天つ神のその先に広がる「不定そのもの」の世界。そしてその「不定そのもの」には名前を付けない。決して「〇〇神」などと呼ばない。そもそも「神」でさえないのだから。そのままにしてある、そして、不定そのものであるため、そこには、言葉でとらえられるものは何もない。しかし、古の神々でさえ占いで尋ねようとする何かが確かに存在するのである。

 

一神教の完成形態たるイスラームとの対比で言えば、この「不定そのもの」にあえて定冠詞付きで「神」の名を与えたのがイスラームということになる。これに対してあくまでも「不定そのもの」であり「無名」のままに留めおいた日本神話の世界。そしてそのことは現在に至るまで引き継がれている。日本の宗教は、多神教と信じられているが、しかし、「不定そのもの」の一神教という見方も可能なのである。

 

 

4 死ぬから空しい、死んでも空しい

「神を信じるか」と一神教の信者が問うときには、「不定そのもの」としての「神」への信仰の有無を問うているのだが、「神」を信じるかと日本語の世界で問われたときには、「不定そのもの」の手前に位置する神、あるいは、不定そのものからは切り離された形で存在するキリスト教の神やイスラームの神が想起されてしまう。

 

「不定そのもの」は、「不定そのもの」なのであるから、完全に伏せられており、「神」という言葉から、「不定そのもの」は想起できないのである。「神を信じるか」という問いは、残念ながら、「不定そのもの」にまでは届かない。

 

神が作ったと言われると、神でさえ占卜によってつくったことを知っている者からすれば、なんとも胡散臭い話だ。

 

7夜の「自分」と異人のかみ合わない会話。実は何も伝わっていない。したがって、そこに「つまらなさ」を埋めてくれるような何かがあるはずもない。繰り返しになるが、「神」という言葉のせいで「不定そのもの」はどこかに失せてしまっている。異人はと言えば、星も海も自らが支配したかのような意気軒高。そして蘊蓄の嵐。そもそも行先はわからないし、何のために乗っているのかもわからない船。黙るしかない。何かをやり遂げようなどという気分ではない。

 

神も伏せるし、死も伏せる。夢だから覚めるけれど、果たして夢でなくても、日本語の世界で人は死ねるのであろうか。何かを完全にやり切らなければ死ぬことはできないと呪われているような、日本語の「死」。あの世がなくても、日本語の世界では、死後も死ねないのだ。

 

死んでしまえば、すべては無に帰し、忘れ去られてしまうのだから空しいとコヘレトは言った(『旧約』「伝道の書」)が、『夢十夜』の「自分」の空しさは、死んでみても同じではないかと思えるような空しさ、あるいは、たとえ死んでも死に切ることさえできないと思えるような空しさ。そんな空しさを黒い波を目前にした「自分」に感じることはできないであろうか。

 

それは、飛び込んだことに対する後悔というより、何もやり遂げることがなかったことに対する後悔か。人の世が「とかく住みにくい」のは、幾重にも呪詛に縛られているからか。この世もあの世も混然一体とした無境界の世界。

 

「自分」が抱いたのは、生きているのか死んでいるのかわからない状態に対する捉えどころのない恐怖と、飛び込んだところで死に切れていない自分では何も変わらないのにという後悔だったのかもしれない。

 

奥田 敦

2021320



[1] https://ameblo.jp/kimi-nakamura-ken1102/entry-11215250719.html

[2] https://blog.goo.ne.jp/kamisanbi/e/80a6369a24f5e7f9aa470f9fbd8967d0

[3] 金田一京助「規範文法から歴史文法へ」『日本語の変遷』講談社学術文庫901976年。104頁以下。「例えば、『死』は人の恐れ忌むことなので『逝く』『みまかる』『無くなる』のような語を生じたが、『死ぬ』という形そのものさえも、実は換喩で本当にもとの語は何であったかわからない。(中略)その『死ぬ』の『死』は、実は『為」(し)であって、「死ぬ」の「ぬ」は『逝ぬ』(いぬ)である。すなわち『死ぬ』は『為逝ぬ』(しいぬ)というだけで、その意味は、直接に『死去』ということを言うのを略して、『してしまいました』で、『死去してしまいました』を聞かせたのが起こりであるらしい。」

[4] 井筒俊彦『言語と呪術』安藤礼二監訳、小野純一訳、慶應義塾大学出版会、20189月。41頁以下。

[5] 井筒俊彦『言語と呪術』安藤礼二監訳、小野純一訳、慶應義塾大学出版会、20189月。44頁以下。

[6] 『和辻哲郎全集』第1262頁。以下、和辻からの引用は同箇所。

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