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2021/08/29

思い込みと決めつけが人の命を窮地に追い込む

「東京都若者向け接種会場(渋谷)に希望者が殺到。長蛇の列。結局抽選に」

「カブール空港に出国希望者が殺到。死者まで」

ここ数日、衆目を集める、この二つの事象だが、命を守るための行動が命取りになりかねないという点で共通している。コロナウイルス感染に対する恐怖、タリバンの暴力の標的にされることに対する恐怖。自分だけではない。家族もまた同様に危機にさらされる。

カブールでは悪夢が現実のものになってしまった。「ISIS-K自爆テロで200人を殺傷」。即座に米国は無人機による報復攻撃を行なった。

 

東京とカブール。両者に共通するのが、これらが政治的な判断のミスによって引き起こされたと言いうる点だ。見通しが甘すぎる。

市町村が行なう接種の予約が非常にとりにくい現状がある中、渋谷で、若者(16歳から39歳)を対象に行う予約なし接種である。なぜ、200回や300回の想定で接種を開始しようとしたのか。

そこには、若者は接種に否定的という決めつけがあったように思う。これまで、第5波の感染拡大の要因の一つとして、酒類の販売・流通業者とともに、非難の矛先を向けられてきた若者たちである。否定的な論調は、ネット上で言われていたことを地上波が増幅し、それを政府が犯人を仕立てるために使った。統計は取り方によって結果が異なるが、思惑にあったデータを使う。もっともらしさに納得させられる。政府に対する責任は追及されない。

アフガニスタンについても、同様のことが言える。新国家樹立から20年。曲がりなりにも民主主義が根付き、現地の治安は政府の警察機能によって保たれるから、米軍が撤退しても大丈夫という決めつけ。専制主義に対して自由・民主主義を守るのは力でしかないことは、歴史的にもまた昨今の東シナ海情勢を見ても明らかだが、その想像力が働かない。

 

そしていずれのケースにおいても、その政策を身体を張って現場で実施する人々が振り回される。医療崩壊により自分が倒れたときのケアが約束されていない現状、あるいは、どこでテロ攻撃に晒され命を落とすかもしれない現状。

その状況に晒されているのは、ワクチン接種を希望して集まった人も、国外に脱出しようと空港に集まった人々同じだ。彼らこそ、最優先で、大切にされるべきなのに。

そこに透けて見えるのが、政策決定者たちの思惑、あるいは彼らの都合だ。彼らが選挙によってえらばれる以上、選挙は、どうしたって無視できない。選挙、そしてそのためのわかりやすい実績作り、そんな言葉が浮かんでしまう。それらが決めつけや思い込みとタッグを組んで、人々が命を守ろうとする行為を、命の危機に晒すことになってはいないか。


しかし、決めつけや思い込みによって、意思決定が左右されてしまうのは、政治的な決定に限った話ではない。

•「すなわち真理とは、それが錯覚であること忘却されてしまった錯覚……なのである」(ニーチェ『道徳以外の意味における真理と虚偽について』)。
•つまりオリエンタリズムは、「錯覚の真理」

ニーチェに従えば、錯覚もまた錯覚であることが忘れられるほど繰り返されれば「真理」になりうる。

家族なら、パートナーなら、父親なら、母親なら、友達ならという種類の決めつけや思い込みはあまた存在する。

自分の考えを正論であると思い込み、他の考えに対して考えなおしたり、譲ったりしないと、判断の誤りどころか大切な関係を失うことにもなりかねない。

たとえば、父親としての理想を夫に求める。夫がその理想を共有し、自分を変えてくれて当然だと思う。父親としての在り方は千差万別であっていいはずだが、自分が理想とする理想の夫の中に、夫を縛り付けて、それへの変化を迫る。これでは、良好な関係が続くことは難しい。

思い込みにしろ決めつけにしろそれらは個人が行なうことだから、その段階では、単なる一個人の意見だが、SNSにそれが拡散され、ある程度の賛同を得たとき、真理的な、あるいは正義的なものへと格上げされていく。それがまた厄介である。思い込みたい自分が前提なので、その拘束力が格段に強くなるからである。

そんな状況の中へ、突然、剥き出しの真実が姿を現す。批判的だと目されていた若者たちの長蛇の列であり、 滑走をはじめようとする大型飛行機にしがみつく、国外脱出希望者の殺到である。

 

一つ確かなことは、万物は流転するということ。 ニーチェが言うように真理が解釈だとするならば、真理は人の数、状況の数だけあることになる。真理とはしたがって、変化であり多様性自体なのだ。

政治にしても、法にしても、またさまざまな制度にしても、その流転についていけていない。自分もまた同様である。

変化に鈍感、ステレオタイプによる決めつけも激しい。思考停止した瞬間から変化からはおいていかれることになる。決めつけで縛り付けたり、括りつけたりしていないかに心を致す。少しずつでもそのあたりの改善を続け、やがてそれを多様性を認め合える世界の構築につなげたい。

ワクチン接種においても、またタリバンにしても、人間は誰であれ、いかなる状況に置かれたとしても、命も人生もある一人の人として最優先に守られなければならない。人間は、コロナの奴隷でも、ワクチンの奴隷でも、タリバンの奴隷でも暴力の奴隷でもないのだから。

2021/08/19

手間のいらないトマトを楽しんだ夏

「手間のいらないミニトマト」は、本当に手間いらずで、かなりの収穫がありました


自家製トマトとインゲンのポテトサラダ


秋の始まりを感じさせる雲

新たに芽吹いたインゲンと夏空

 

 

 当サイトをお読みいただいている皆様へ

ラマダーン月明けから、更新が滞っておりました。早めの夏休みをたっぷりとってしまった格好です。

猫の額ほどの家庭菜園のトマトの成長と収穫を喜びつつ、コロナ禍で動けない現状の中、更新まで静かになってしまっておりました。

かつてない規模や頻度の洪水や山火事が世界各地を襲う中で、止まらないコロナウイルスの感染拡大。

今、無事に生きていられることへの感謝を新たにしています。

 

シロアリが先か腐敗が先か

金融資本主義化において「私的所有」がかつてない勢いで格差の拡大も引き起こしつつ肥大化していく中、「公」なるものの復権、あるいは、再構成の議論がなされています。

国家予算に近いところにいる一部の人々が「公」を合法的に「私」を、シロアリのごとくにボロボロに食い尽そうとしているように見える状況の中で、「公」の議論は容易ではないかなと思います。

誰にだって、心の中にシロアリが住み着かないとは言えません。甘いものをご褒美に、自分で自分をほめたくなるけれど、糖の一部には激しい依存性があって、糖尿や通風を引き起こす。体質にもよるので、もちろん、一概には言えませんが、一つのサインかもしれません。

コロナ禍で経済的な意味だけでなく、社会的にも、心理的にも、かなりはっきりとした分断化が進んでいる状況を世界共通で抱え込まされている現在、シロアリたちは群れをなして、「公」を国家や、体制や、主義主張、イデオロギーの延長線上で考えようとするかもしれません。

むしろ、トマトの甘みに感動しながら、マヒした味覚を取り戻していく。トマトが天からの奇跡的な賜物であると思えば、その愛おしさに甘さも増す。

「公」については、そのあたりから発想しなおしてみてはどうかなと個人的には考えます。

 

忘れたころの更新になってしまうかもしれませんが、どうぞ、今後ともよろしくお願いいたします。

 

このページの閲覧数が投稿後約1週間「0」を保ち続けているため、行間にあった想いを、書き出して「しるし」から「現代社会」を読む小エッセイに拡張してみました。


2021/05/13

イード・ムバーラク!

節制生活お疲れ様でした

2021年のラマダーンが最終日を迎えました。節制生活を送られた皆様、本当にお疲れ様でございました。
今年は、コロナ禍で全世界規模でイードの礼拝も自宅にて行うことを余儀なくされております。



自宅で行うイード礼拝


そこで、自宅で行うイード礼拝の最低限をお知らせしてみます。


まず時間ですが、日の出の45分後からズフル礼拝の45分前まで。
時間的な余裕をみれば、東京近辺の場合は、6時半から10時半の間に済ませれば問題はないでしょう。

イードの礼拝は、2ラクア


回数は、ファジュルの礼拝と同じ2ラクアですが、タクビール(「アッラーフ・アクバル」と唱えること)の回数が違います。


一回目のラクアでは、合計で7回。2回目のラクアでは、合計で5回です。

一回目のラクアでは、「ファーティハ(開端章)」の後に「(アル・アアラー)至高者章」(第87章)をそして2回目のラクアでは、「ファーティハ」の後に、「アル・ガーシヤ(圧倒的事態章)」(第89章)あるいは「アッ・シャムス(太陽章)」(第91章)を読むのが、スンナ(ムハンマドの言行)であると、モロッコのイマームによる下のURLでも説明があります。


そのURLではコロナ禍でモスクで祈ることができない非常事態のためにと、家でのイード礼拝がコンパクトに示されています。イメージがつかめないようでしたら、参考になさってください。
https://www.youtube.com/watch?v=KXO9Kf37WI4

イード礼拝の後は、通常であれば、訪問などを行って、1か月間の喜びを分かち合うとともに、互いのつながりを大いに温めるところですが、今年は、そのあたりの工夫も求められています。


「この世でもよく、あの世でもよい」

空爆するお金があるのなら、ワクチン接種に使ってください。
打つべきはロケットやミサイルではなく、ワクチンです。

立てるべきは、自分たちだけの権益や正義を守るための壁ではなく、世界の津々浦々に届く集団接種によるコロナウイルスを封じ込める免疫の壁です。


来世に託す前に、まだまだやれることはあるはずです。

当ブログの読者の皆様に、そして信者であるなしにかかわらず、世界の一人ひとりに皆様に、慈愛あまねき、慈悲ぶかき御方のご加護と祝福がありますように。

イード・ムバーラク


2021/04/13

2021年ラマダーンの開始日について(改訂版)

 

西暦2021年のラマダーンはいつから?

一般に国際的に受け入れられているイスラーム暦によれば、4月13日(火)からです。手元のイスラミックファインダーのイスラーム暦カレンダーにおいても、ヒジュラ暦1442年のラマダーン月は、西暦2021年4月13日(火)からとなっています。

ただし、ヒジュラ暦の新しい月は前月の29日の日没時に、糸を引いたような極細い月が観測されれば翌日から、観測されなければ、翌々日から始まります。

いずれにしても、西暦のカレンダーの前日の日没後以降にヒジュラ暦の新しい月が始まります。よってラマダーン月の実際のスタートも前日、つまり西暦2021年4月12日の日没後以降になります。


観測されなければ、翌日からのスタートになる

当然のことながら、観測は天候状態に左右されます。したがって、その細い月が観測できなければ、ラマダーンの開始も一日後ろにずれることになります。日本で観測できない場合、マレーシアに合わせることが多いのですが、トルコのように、観測の結果にかかわらず、暦通りにラマダーンを開始する国もあります。


今年のラマダーンの断食を始めるのはいつから?

そのごく細い月が無事に観測されれば、今年は4月13日(水)のファジュル(日出の約1時間半前の時刻)からになります。この1か月は、その時刻から日没までの間、食べ物も、飲み物も口にせず、欲望を抑え、怒らず、慎み深く過ごします。


開始日は国によって異なることも知っておこう

ヒジュラ暦は、国によって1・2日ずれていることがあります。たとえば、バングラデシュ。日刊新聞の本日(4月12日)の日付は、シャアバーン(ラマダーンの前の月の名称)28日となっています。パキスタンの科学技術省のイスラーム暦においても本日の日付は、バングラデシュと同様シャアバーン月の28日です。


決めてから行うことが重要

ラマダーンの節制生活は、信者だけでなく、すべての人に開かれています。どなたでも、この節制生活に参加することが出来ます。

たとえ1日でも、試してみることができます。そのときには、「今日は、サウム(節制生活)を行う」と心に決めてから、お試しください。

決めた通りにできないことに悩まされる日常を過ごしていたとしても、食べない、飲まない、怒らない、争わない、欲張らないなどという形の消極的で控えめな方法で「決めたことをやり遂げた達成感」を味わうことができるはずですので。

2021/04/05

自由意思という檻

1.「行為は意志による」というハディースがある



これまで、このハディース(アッラーの御使いムハンマドの言行を伝える伝承)を行為規範の根拠として、つまり、「行為とは意志によって行われるものであり、意志によって行われた行為は、その人のものとして、ルールがある場合には法的な責任を負わされる」と読んできた。

ハディースは、イスラーム法において聖典クルアーンと並んで不易不動の法源をなすが故に、行為は意思によるという考えはイスラーム法の基本原則の一つと見ることができる。そして、もちろん、この意志主義とでも呼ぶべき(法律用語としては「意思」主義)は、近現代の社会規範の柱をも形成している。社会関係の動因をなす行為は原則として「意思」によって行われるものであると。

意志は決意や決心と結びつくような強い思い、意思は、心に決めたというほどの深さとは必ずしも関係のない考えや思い。法的に言えば、意志は意思に含まれることになる。[1]

自由意思に従って、職業を選択し、働き、契約を行ない、物を所有し、職業を選択し、住む場所を決め、旅行もすれば、買い物もする。人と付き合い、恋愛をし、将来を誓い合って、結婚をしたかと思えば、離婚もする。

そうしたもろもろの「意思」「意志」「決心」「決意」は、しかし、残念ながら、大概はうまくいかない。よいと思って就職した先が倒産する。首切りにあう。最高のコスパを見込んで買った商品がすぐに故障する。無料の文字に踊らされて結んだ契約が無料期間を過ぎたら割高な料金の設定になっていた。寝に帰る場所としてパワーマンションを購入したとたんにコロナ禍の在宅テレワークで手狭で息苦しくて仕方ない。上がると思って買った株がすっかり暴落、手放した途端に金余りの資金流入で高騰。。

そのときにはそれなりに考えて決めたとしても、結局、思慮が足りなかったと後悔する。

夏目漱石『夢十夜』第7夜の「自分」もそうだ。あまりのつまらなさ、解消を見通せないつまらなさから入水を図るものの、(「不定そのもの」による一人も殺さないセーフティーネットの存在はこの際さておくとして)もう取り返しがつかない。

「やっぱり乗っている方がよかったと始めて悟りながら、しかもその悟りを利用することができずに」という状況である。

やらかしてからでないと「悟り」を待つことのできない「決心」。困ったものだが、これが「自分」の現実。つまり、決心であろうが決意であろうが、人間の意思は当てにならないのである。

人間はこんな「決心」もできてしまう自由意思の虜なのだ。





2.悟りを得れば、自由意思の言いなりになどならないのではないか。



「自分の心に頼む者は愚かである」(箴言28:26)と旧約聖書は言う。

「思慮ない者よ、悟りを得よ、愚かな者よ、知恵を得よ」(箴言8:5) とも。



宗教を否定する「近代」にあって、これらの言葉はまともに取り合ってもらえない。それこそ空しい状況である。「知恵」を「悟り」をと呼び掛けても、心に頼む人々、そして、それによって儲ける人々、儲ける人々にとって人々の悟りは禁物だ。悟られたらおしまい。愚かなままに留めおくために必要なコト。心を動かし続けるもの。頼れるのは、エンターテインメント。喜怒哀楽の追体験として、ときに陳腐でさえある氾濫する物語。
近代という時代は、愚か者を量産する。


楽しいことならまだよいかもしれないが、心がくたくたに疲弊することも生じうる。1886年にフロイトが一般開業医としてヒステリーの治療を始めた。精神分析学の曙光である。心に病があり、それは治療できるものと位置づけられるようになる。心の病。人々のストレスが臨界点を超えたということであろうか。当然の帰結と言えば当然か。

そんな病理を構造的に生み出すような時代に、自己責任論、何でもかんでも自分の意思のせいにする考え方はそぐわない。たしかに、自由権を得るために多くの血が流された。ようやく勝ち取った自由権かもしれない。しかし、自由になってみると、こんどはその自由に翻弄される。自分の意思があまりに頼りない。自分を裏切る自分、自分にがっかりさせられることもしばしばだ。



3.この意思の檻から解放されるために:悟りと知恵



すべての行為は意志によるという言明を「あの行為は意志によるものだった」と単なる叙述として読んでみるというのはどうであろうか。

たしかに「意思」によって行為はなされる。誰であっても、思うところというのはある。思うところは人それぞれである。アッラーの道のためにとマディーナに移住した者もいれば、結婚をしようと移住した者もいる。

「意思」によらなければならないとか、「意思」によって行われるが故に意思の持ち主がその行為の責任を負わなければならないといった規範的な意味をシャリーアの体系は読み取ろうとするが、立法者たるアッラーと、来世の存在が明確な体系(それらはしばしば恣意的に用いられてしまうのだが)。それに対して、近代の意思主義では、すべてを拾い、最後まで寄り添うような立法者の存在も、遂げられなかった思いが実現される最後の日のようなものも想定されてはいない。


思わぬことを思ってみる、思うこと自体を止める時間を作ってみる。行為は意思によるのかもしれないが、人間は24時間意思するものにあらず。自分が思っていることがすべてではない。主の知を知る努力を怠らないこと。主と向き合う時間を作ること。不定そのものから適切に私たちの在り方を引き出すためにも、究極的な存在が存在することを想定し、人間の意思では到底及びもつかない、必然と存在が一体となっている世界、つまり運命によって動かされる世界を前提としてみれば、意思主義の檻の鍵は外れてくれるかもしれない。 

奥田 敦

2021年3月25日




[1] 意志は決意や決心と結びつくような強い思い、意思は、心に決めたというほどの深さとは必ずしも関係のない考えや思い。法的に言えば、意志は意思に含まれることになる。

あえて語らぬ/あえて語りぬ

 

1 沈黙

コロナ禍にもかかわらず、現地に滞在しながら日本語教育を続ける友人から、夏目漱石『夢十夜』の第7夜のアラビヤ語訳を送っていただいた。なんでも、この作品に関心を持った受講生たちとともに作成したという思いのつまった翻訳だ。

この第7夜は、西洋に向かう客船から、投身自殺を図る「自分」が入水前の船上の状況から入水の最後の瞬間の心情までが描写されていて、いろいろなことを考えさせてくれる小品である。中でも個人的には、甲板の上に出てひとり星を眺めている「自分」のところにやってきて「天文学を知っているか」と尋ねた異人とのやり取りが気になる。

 

「自分」は、「つまらないから死のうとさえ思っている。天文学など知る必要がない。黙っていた」のであるが、異人は、金牛宮の頂にある七星(北斗七星)の話をし、「そうして星も海もみんな神の作ったものだと云った」のであり、最後に自分に神を信仰するかと尋ねた。」「自分」は、空を見て黙っていた」という。

 

清朝からの引き上げ宣教師が多数乗船していた時代である。しつこい宣教師に絡まれたのだし、宗教など信じるに値しないものでもあるのだから、無視するような態度は当然であるという解釈[1]もあれば、耳を傾けていれば、無限の後悔と恐怖を抱いて黒い波の方へ静かに落ちていかずに済んだのではないかいう指摘[2]もある。

 

確かなことは、「つまらないから死のうとさえ思っている」ことに、注意を払おうとしない異人の姿勢であり、その言葉が自死を思いとどまらせるような働きとは無縁であったということである。

ここで、アラビヤ語の訳を見てみよう。「神」の訳である。「神の作ったもの」の部分も、「神を信仰」の部分も、神は「アッラー」と訳されている。ここに登場する異人は、おそらく、イスラーム教徒ではない。もしもイスラーム教徒であったのならば、「アッラーを信じるか」という問いになっていたかもしれない。

しかし、「海も星もすべて神が作った」「神を信じるのか」というときの「神」とはいったい何なのか、もとより会話として成立していないのではないかと思う。

 

神を信じるかと聞いてくるものがいるかと思えば、若い女の引くピアノに合わせて二人きりの世界で唱歌を唄う背の高い立派な男の変に大きな口(こういう時の口は確かにえげつなく大きく見える)。世の中に何かを見つけようとしている「自分」がますますつまらなくなるには十分な状況である。しかし、それが、いやそれも含めたもろもろが「とうとう死ぬことに決心」するに十分だったとは思わない。そのことは、本人がいちばん知っていることとだ。甲板から自分の足が離れて船と縁が切れたその刹那に、急に命が惜しくなっているからだ。

 

そこで初めて悟る。「何処へ行くんだか判らない船でも、やっぱり乗っている方がよかった」と。「しかもその悟りを利用することが出来ずに、無限の後悔と恐怖を抱いて黒い波の方へ静かに落ちて行った」のである。

 

2 何かを遂げないと死ねない!?

 

7夜の夢はここで終わる。つまらないことぐらいで、行く先のわからない船に乗っていることぐらいで死ぬと後悔すると教えてくれているのであろうか。つまらないこと、目的のわからないことばかりの現実の中、断とうとすればそれはそれでまた無限の後悔と恐怖に苛まれる。夢の中の話なので、目覚めれば、現実を生きることになる。なんとも後味の悪い夢である。

無限の後悔と恐怖とは、具体的に何を指しているのであろうか。キリスト教徒やイスラーム教徒であれば、神の意志に背いて自らの命を絶ってしまったことに対する後悔と、彼を待ち受ける地獄に対する恐怖ということになろうが、漱石は、「無限の後悔と恐怖」とだけ云う。

 

その自分が静かに落ちて行ったのが「黒い波の方」だが、地獄より奈落と重ね合わせることのできる表現であろうか。こうした状態で船から飛び降りれば、死ぬことは間違いなく、「自分」は少なくとも夢の中で死んだと解するのが妥当であるかに思えるのだが、少なくとも漱石は「死んだ」とは一言も云っていない。もとより、夢の話である。

 

ところで、日本語の「死ぬ」という言葉は、元来、「生命が無くなる、息が絶える」という意味の言葉ではない。井筒俊彦が金田一京助の研究[3]から紹介するところによれば、古代の日本語では、「命が無くなる/息が絶える」という事態に対してそのことを直接指す言葉を伏せて、「し--る」(つまり、完全に何かをやり終える)という言葉を使って表していたと言う[4]

生命が無くなる、命が絶えるという忌むべき状況に対しては言葉を伏せるのが、古代の日本語の世界である。

 

「死」に限らず忌々しきことはあえて言語化しない。言語化すれば、それがやがて必ず降りかかってくるからだ。井筒は『言語と呪術』の中で『万葉集』から引用する[5]

 

「朝霧の乱るる心言に出でて言わば忌々しみ」

 

悲しいとき、ひとはその悲しみを心に忍ばねばならない。さもなくば、何か恐ろしいことが必ず起きる。

 

3 天つ神も占い頼み

言語化しなかった例として思い出されるのが、「神」である。和辻哲郎の「天つ神」という言葉についての指摘である。「イザナギ・イザナミの2神が、最初の国土創造に失敗したとき、天つ神の所へ帰ってそれを報告し、再び天つ神の命を請うた」[6]。そのときの天つ神たちによる命令の仕方が驚きだと和辻は言う。「「布斗麻邇爾卜相而」指令を与えたのだ。つまり、占卜によってやり方を見直せという指令である。

 

和辻は言う。「占卜によって知られるのは不定の神の意志であるが、天つ神にとっての不定の神とは何であるか。天つ神の背後にはもう神々はない。しかもこれらの神々がなお占卜を用いるとすれば、この神々の背後になお何かがなくてはならぬ。それは神ではなくしていわば不定そのものである。」古の意ばえは究極者を何々の神として固定することはしない。

 

「すなわち最後の天つ神たちさえも不定者の現われる通路であって究極者ではない。究極者を神として把捉しようとする意図はここにはないのである。」(『古事記伝』4,225頁)

 

さらに和辻は宣長を引用する。「今此天津の卜へ賜ふは、何神の御教を受賜ふぞと、疑ふ人も有なめど、其は漢籍意(からぶみごころ)にて、古(いにしへ)の意(こころ)ばへに違へり」ちがへりそうう語句へ給ふは」

 

天つ神のその先に広がる「不定そのもの」の世界。そしてその「不定そのもの」には名前を付けない。決して「〇〇神」などと呼ばない。そもそも「神」でさえないのだから。そのままにしてある、そして、不定そのものであるため、そこには、言葉でとらえられるものは何もない。しかし、古の神々でさえ占いで尋ねようとする何かが確かに存在するのである。

 

一神教の完成形態たるイスラームとの対比で言えば、この「不定そのもの」にあえて定冠詞付きで「神」の名を与えたのがイスラームということになる。これに対してあくまでも「不定そのもの」であり「無名」のままに留めおいた日本神話の世界。そしてそのことは現在に至るまで引き継がれている。日本の宗教は、多神教と信じられているが、しかし、「不定そのもの」の一神教という見方も可能なのである。

 

 

4 死ぬから空しい、死んでも空しい

「神を信じるか」と一神教の信者が問うときには、「不定そのもの」としての「神」への信仰の有無を問うているのだが、「神」を信じるかと日本語の世界で問われたときには、「不定そのもの」の手前に位置する神、あるいは、不定そのものからは切り離された形で存在するキリスト教の神やイスラームの神が想起されてしまう。

 

「不定そのもの」は、「不定そのもの」なのであるから、完全に伏せられており、「神」という言葉から、「不定そのもの」は想起できないのである。「神を信じるか」という問いは、残念ながら、「不定そのもの」にまでは届かない。

 

神が作ったと言われると、神でさえ占卜によってつくったことを知っている者からすれば、なんとも胡散臭い話だ。

 

7夜の「自分」と異人のかみ合わない会話。実は何も伝わっていない。したがって、そこに「つまらなさ」を埋めてくれるような何かがあるはずもない。繰り返しになるが、「神」という言葉のせいで「不定そのもの」はどこかに失せてしまっている。異人はと言えば、星も海も自らが支配したかのような意気軒高。そして蘊蓄の嵐。そもそも行先はわからないし、何のために乗っているのかもわからない船。黙るしかない。何かをやり遂げようなどという気分ではない。

 

神も伏せるし、死も伏せる。夢だから覚めるけれど、果たして夢でなくても、日本語の世界で人は死ねるのであろうか。何かを完全にやり切らなければ死ぬことはできないと呪われているような、日本語の「死」。あの世がなくても、日本語の世界では、死後も死ねないのだ。

 

死んでしまえば、すべては無に帰し、忘れ去られてしまうのだから空しいとコヘレトは言った(『旧約』「伝道の書」)が、『夢十夜』の「自分」の空しさは、死んでみても同じではないかと思えるような空しさ、あるいは、たとえ死んでも死に切ることさえできないと思えるような空しさ。そんな空しさを黒い波を目前にした「自分」に感じることはできないであろうか。

 

それは、飛び込んだことに対する後悔というより、何もやり遂げることがなかったことに対する後悔か。人の世が「とかく住みにくい」のは、幾重にも呪詛に縛られているからか。この世もあの世も混然一体とした無境界の世界。

 

「自分」が抱いたのは、生きているのか死んでいるのかわからない状態に対する捉えどころのない恐怖と、飛び込んだところで死に切れていない自分では何も変わらないのにという後悔だったのかもしれない。

 

奥田 敦

2021320



[1] https://ameblo.jp/kimi-nakamura-ken1102/entry-11215250719.html

[2] https://blog.goo.ne.jp/kamisanbi/e/80a6369a24f5e7f9aa470f9fbd8967d0

[3] 金田一京助「規範文法から歴史文法へ」『日本語の変遷』講談社学術文庫901976年。104頁以下。「例えば、『死』は人の恐れ忌むことなので『逝く』『みまかる』『無くなる』のような語を生じたが、『死ぬ』という形そのものさえも、実は換喩で本当にもとの語は何であったかわからない。(中略)その『死ぬ』の『死』は、実は『為」(し)であって、「死ぬ」の「ぬ」は『逝ぬ』(いぬ)である。すなわち『死ぬ』は『為逝ぬ』(しいぬ)というだけで、その意味は、直接に『死去』ということを言うのを略して、『してしまいました』で、『死去してしまいました』を聞かせたのが起こりであるらしい。」

[4] 井筒俊彦『言語と呪術』安藤礼二監訳、小野純一訳、慶應義塾大学出版会、20189月。41頁以下。

[5] 井筒俊彦『言語と呪術』安藤礼二監訳、小野純一訳、慶應義塾大学出版会、20189月。44頁以下。

[6] 『和辻哲郎全集』第1262頁。以下、和辻からの引用は同箇所。

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