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2021/05/13

イード・ムバーラク!

節制生活お疲れ様でした

2021年のラマダーンが最終日を迎えました。節制生活を送られた皆様、本当にお疲れ様でございました。
今年は、コロナ禍で全世界規模でイードの礼拝も自宅にて行うことを余儀なくされております。



自宅で行うイード礼拝


そこで、自宅で行うイード礼拝の最低限をお知らせしてみます。


まず時間ですが、日の出の45分後からズフル礼拝の45分前まで。
時間的な余裕をみれば、東京近辺の場合は、6時半から10時半の間に済ませれば問題はないでしょう。

イードの礼拝は、2ラクア


回数は、ファジュルの礼拝と同じ2ラクアですが、タクビール(「アッラーフ・アクバル」と唱えること)の回数が違います。


一回目のラクアでは、合計で7回。2回目のラクアでは、合計で5回です。

一回目のラクアでは、「ファーティハ(開端章)」の後に「(アル・アアラー)至高者章」(第87章)をそして2回目のラクアでは、「ファーティハ」の後に、「アル・ガーシヤ(圧倒的事態章)」(第89章)あるいは「アッ・シャムス(太陽章)」(第91章)を読むのが、スンナ(ムハンマドの言行)であると、モロッコのイマームによる下のURLでも説明があります。


そのURLではコロナ禍でモスクで祈ることができない非常事態のためにと、家でのイード礼拝がコンパクトに示されています。イメージがつかめないようでしたら、参考になさってください。
https://www.youtube.com/watch?v=KXO9Kf37WI4

イード礼拝の後は、通常であれば、訪問などを行って、1か月間の喜びを分かち合うとともに、互いのつながりを大いに温めるところですが、今年は、そのあたりの工夫も求められています。


「この世でもよく、あの世でもよい」

空爆するお金があるのなら、ワクチン接種に使ってください。
打つべきはロケットやミサイルではなく、ワクチンです。

立てるべきは、自分たちだけの権益や正義を守るための壁ではなく、世界の津々浦々に届く集団接種によるコロナウイルスを封じ込める免疫の壁です。


来世に託す前に、まだまだやれることはあるはずです。

当ブログの読者の皆様に、そして信者であるなしにかかわらず、世界の一人ひとりに皆様に、慈愛あまねき、慈悲ぶかき御方のご加護と祝福がありますように。

イード・ムバーラク


2021/05/01

ラマダーンの「サウム」を「斎戒」と訳すことについて

ミツバツツジの花言葉:節制・抑制のきいた生活
少ない水の環境に耐え見事な花を咲かせることに由来するという


ラマダーンは断食か?

 今年のラマダーンも後半に入った。昨年に引き続きコロナ禍で信徒同士のイフタール(日没後の断食明けの食事)もままならない日本でのラマダーンである。

ラマダーンとは、何かと問えば、断食のことだと答えが返ってきそうだが、正確を期していえば、ラマダーンとは、イスラーム暦第9月の名称であり、断食は、その第9月の間に信徒たちが義務として行う行為の一つである。

「断食」という言い方は、分かりやすいので、ラマダーンとは「断食月」であるという言い方もなされるが、断つものは食だけではない。口から入れるものは控えるので、水も飲まない。喫煙もしない。

怒らないし、争わないし、欲しがらない。男女の交わりもなしだ。

そうしたことすべてを表すのに、「断食」では、どうにも用が足りない。代表的な行為ではあるけれど、断食に限定されるものではない。


「斎戒」とは

そこで、しばしば「斎戒」の語が用いられる。筆者も長く、「ラマダーン月の斎戒」(最もシンプルにアラビヤ語でいえば、「サウム・ラマダーン」)を定型的な表現そして来た。

ところが「斎戒」という言葉が、日常生活になじみがない。しかも、その意味が、「祭祀(サイシ)などを行う者が心身を清浄にすること。」などであるため、祭祀でもないのに、「斎戒」となってはいよいよ何だか解らない。

(「斎」は心の不浄を浄める意、「戒」は身の過ちを戒める意)飲食・動作を慎んで、心身を清めること。」(『広辞苑』)との説明の「飲食・動作の慎み」は、「サウム」の語にだいぶ重なっているかもしれない。

しかし、「斎戒」に「断食」ほどの分かりやすさはない。ただでさえ訳の分からないものと敬遠されがちなイスラームである。そこへもってきての「斎戒」。それならば、いっそ断食としてしまった方がよいのかという気にもなる。

ところが、「断食」とだけしてしまうと、断食だけすればよいという誤解を生むことにもなりかねない。そして、水も飲まないのですねと変に感心されたりもする。ムスリムの親たちの中には、食べなかったことのご褒美としてお小遣いを与える者たちもいる。

「斎戒」でも「断食」でも用が足りない。こういう時には、クルアーンが下されたアラビヤ語で「サウム」という言葉が、いったいどういう意味なのかから考え直してみると見えてくるものがある。


「サウム」とは

「サウム」には、一般的な意味もある。「節制、控えること、慎むこと」などである。その動詞形である「サーマ」が、アンという前置詞を従えると、「~を控える、慎む」という意味になる。

控えて、慎む。食べることも飲むことも、怒ることも、争うことも、欲しがることも。

そこにあるのは、徹底的な節制である。そうであるならば、ラマダーン月は、節制の月ということもできるのではないか。

しかも、決意をもって、これを行う。意志して何かをやり遂げることが人間に固有の行為であるとするならば、まさに、人間であることの証明にもなる。

誰かの役に立つとか、社会のためになるとかという形では、人間であることあるいは生きていることを実感するのは、難しいかもしれない。

ラマダーンの節制生活は、引き算だ。食べない。飲まない。怒らない。争わない。欲しがらない。。誰かのためとか社会のためとかに対して行う善行の足し算より先に、とにかく引き算。その引き算で生じた1か月間の「差」が、最終的には全体の「和」につながるという考え方だ。

今風に言えば、ラマダーンのサウムによって、一食分は抜くことになるので、食品ロスを減らすことによるSDGsの実現にもつながりうる。


日没とともに断食は解かれる

ラマダーン月の節制は、日々更新される。この点が実はポイントである。

日没を迎えると、断食をはじめとする節制生活は解かれる。その時の食事が断食状態を破るという意味のイフタール。一滴の水、一粒のナツメヤシが、身体にしみわたり、生きていることを実感できる瞬間だ。神に感謝。そして今日もがんばれた。今日もがんばったと、自分を確認する。

そのイフタールだが、家族のみならず、信者どうし、ときには、信仰を超えた友人たちも交えて、行うことが多い。イフタールを共にして、神への感謝と生きている実感と喜びを共有する。忍耐を共にした者同士だからなおさら、絆が一気に深まる。

それだけにコロナ禍が、サウムの効果に与える影響は、深刻だ。それは、マグリブ後にも節制を要請する。とはいえ、この節制生活は、信者であるなし、特定の信仰のあるなしにかかわらず、世界中が要請されている。


「個」であることを見つめなおす

言葉をばらばらにすることによって、言語が異なる者同士のコミュニケーションを難しくしたのがバベルの塔の話だとするならば、コロナの話は、人々に、たとえ同じ言葉をしゃべっていたとしても、あるいは、異なる言語を理解していたとしても、まずは一人ひとりがその指紋が異なるように互いに異なる個であることを、教えてくれてはいないか。

そうであればこそ、既存の「われわれ」という括りを超えて、労わり合い助け合えるというものではなかろうか。

モーゼの共同体とか、イエスの共同体とか、ムハンマドの共同体とか、あるいは、国家とか民族とかイデオロギーとか、階級・階層とか、あるいは、性差といったことまで含め、そういったものの檻に幾重にも閉じ込められていた「小さなわれわれ」。

コロナ禍のイフタールは、そういったことについて考えるチャンスにもなっているように思える。

残り半月を切りました。この月にこの地上で節制生活を送っているすべての人々の神のご加護と祝福と平安がありますように。




2021/04/13

2021年ラマダーンの開始日について(改訂版)

 

西暦2021年のラマダーンはいつから?

一般に国際的に受け入れられているイスラーム暦によれば、4月13日(火)からです。手元のイスラミックファインダーのイスラーム暦カレンダーにおいても、ヒジュラ暦1442年のラマダーン月は、西暦2021年4月13日(火)からとなっています。

ただし、ヒジュラ暦の新しい月は前月の29日の日没時に、糸を引いたような極細い月が観測されれば翌日から、観測されなければ、翌々日から始まります。

いずれにしても、西暦のカレンダーの前日の日没後以降にヒジュラ暦の新しい月が始まります。よってラマダーン月の実際のスタートも前日、つまり西暦2021年4月12日の日没後以降になります。


観測されなければ、翌日からのスタートになる

当然のことながら、観測は天候状態に左右されます。したがって、その細い月が観測できなければ、ラマダーンの開始も一日後ろにずれることになります。日本で観測できない場合、マレーシアに合わせることが多いのですが、トルコのように、観測の結果にかかわらず、暦通りにラマダーンを開始する国もあります。


今年のラマダーンの断食を始めるのはいつから?

そのごく細い月が無事に観測されれば、今年は4月13日(水)のファジュル(日出の約1時間半前の時刻)からになります。この1か月は、その時刻から日没までの間、食べ物も、飲み物も口にせず、欲望を抑え、怒らず、慎み深く過ごします。


開始日は国によって異なることも知っておこう

ヒジュラ暦は、国によって1・2日ずれていることがあります。たとえば、バングラデシュ。日刊新聞の本日(4月12日)の日付は、シャアバーン(ラマダーンの前の月の名称)28日となっています。パキスタンの科学技術省のイスラーム暦においても本日の日付は、バングラデシュと同様シャアバーン月の28日です。


決めてから行うことが重要

ラマダーンの節制生活は、信者だけでなく、すべての人に開かれています。どなたでも、この節制生活に参加することが出来ます。

たとえ1日でも、試してみることができます。そのときには、「今日は、サウム(節制生活)を行う」と心に決めてから、お試しください。

決めた通りにできないことに悩まされる日常を過ごしていたとしても、食べない、飲まない、怒らない、争わない、欲張らないなどという形の消極的で控えめな方法で「決めたことをやり遂げた達成感」を味わうことができるはずですので。

2021/04/05

自由意思という檻

1.「行為は意志による」というハディースがある



これまで、このハディース(アッラーの御使いムハンマドの言行を伝える伝承)を行為規範の根拠として、つまり、「行為とは意志によって行われるものであり、意志によって行われた行為は、その人のものとして、ルールがある場合には法的な責任を負わされる」と読んできた。

ハディースは、イスラーム法において聖典クルアーンと並んで不易不動の法源をなすが故に、行為は意思によるという考えはイスラーム法の基本原則の一つと見ることができる。そして、もちろん、この意志主義とでも呼ぶべき(法律用語としては「意思」主義)は、近現代の社会規範の柱をも形成している。社会関係の動因をなす行為は原則として「意思」によって行われるものであると。

意志は決意や決心と結びつくような強い思い、意思は、心に決めたというほどの深さとは必ずしも関係のない考えや思い。法的に言えば、意志は意思に含まれることになる。[1]

自由意思に従って、職業を選択し、働き、契約を行ない、物を所有し、職業を選択し、住む場所を決め、旅行もすれば、買い物もする。人と付き合い、恋愛をし、将来を誓い合って、結婚をしたかと思えば、離婚もする。

そうしたもろもろの「意思」「意志」「決心」「決意」は、しかし、残念ながら、大概はうまくいかない。よいと思って就職した先が倒産する。首切りにあう。最高のコスパを見込んで買った商品がすぐに故障する。無料の文字に踊らされて結んだ契約が無料期間を過ぎたら割高な料金の設定になっていた。寝に帰る場所としてパワーマンションを購入したとたんにコロナ禍の在宅テレワークで手狭で息苦しくて仕方ない。上がると思って買った株がすっかり暴落、手放した途端に金余りの資金流入で高騰。。

そのときにはそれなりに考えて決めたとしても、結局、思慮が足りなかったと後悔する。

夏目漱石『夢十夜』第7夜の「自分」もそうだ。あまりのつまらなさ、解消を見通せないつまらなさから入水を図るものの、(「不定そのもの」による一人も殺さないセーフティーネットの存在はこの際さておくとして)もう取り返しがつかない。

「やっぱり乗っている方がよかったと始めて悟りながら、しかもその悟りを利用することができずに」という状況である。

やらかしてからでないと「悟り」を待つことのできない「決心」。困ったものだが、これが「自分」の現実。つまり、決心であろうが決意であろうが、人間の意思は当てにならないのである。

人間はこんな「決心」もできてしまう自由意思の虜なのだ。





2.悟りを得れば、自由意思の言いなりになどならないのではないか。



「自分の心に頼む者は愚かである」(箴言28:26)と旧約聖書は言う。

「思慮ない者よ、悟りを得よ、愚かな者よ、知恵を得よ」(箴言8:5) とも。



宗教を否定する「近代」にあって、これらの言葉はまともに取り合ってもらえない。それこそ空しい状況である。「知恵」を「悟り」をと呼び掛けても、心に頼む人々、そして、それによって儲ける人々、儲ける人々にとって人々の悟りは禁物だ。悟られたらおしまい。愚かなままに留めおくために必要なコト。心を動かし続けるもの。頼れるのは、エンターテインメント。喜怒哀楽の追体験として、ときに陳腐でさえある氾濫する物語。
近代という時代は、愚か者を量産する。


楽しいことならまだよいかもしれないが、心がくたくたに疲弊することも生じうる。1886年にフロイトが一般開業医としてヒステリーの治療を始めた。精神分析学の曙光である。心に病があり、それは治療できるものと位置づけられるようになる。心の病。人々のストレスが臨界点を超えたということであろうか。当然の帰結と言えば当然か。

そんな病理を構造的に生み出すような時代に、自己責任論、何でもかんでも自分の意思のせいにする考え方はそぐわない。たしかに、自由権を得るために多くの血が流された。ようやく勝ち取った自由権かもしれない。しかし、自由になってみると、こんどはその自由に翻弄される。自分の意思があまりに頼りない。自分を裏切る自分、自分にがっかりさせられることもしばしばだ。



3.この意思の檻から解放されるために:悟りと知恵



すべての行為は意志によるという言明を「あの行為は意志によるものだった」と単なる叙述として読んでみるというのはどうであろうか。

たしかに「意思」によって行為はなされる。誰であっても、思うところというのはある。思うところは人それぞれである。アッラーの道のためにとマディーナに移住した者もいれば、結婚をしようと移住した者もいる。

「意思」によらなければならないとか、「意思」によって行われるが故に意思の持ち主がその行為の責任を負わなければならないといった規範的な意味をシャリーアの体系は読み取ろうとするが、立法者たるアッラーと、来世の存在が明確な体系(それらはしばしば恣意的に用いられてしまうのだが)。それに対して、近代の意思主義では、すべてを拾い、最後まで寄り添うような立法者の存在も、遂げられなかった思いが実現される最後の日のようなものも想定されてはいない。


思わぬことを思ってみる、思うこと自体を止める時間を作ってみる。行為は意思によるのかもしれないが、人間は24時間意思するものにあらず。自分が思っていることがすべてではない。主の知を知る努力を怠らないこと。主と向き合う時間を作ること。不定そのものから適切に私たちの在り方を引き出すためにも、究極的な存在が存在することを想定し、人間の意思では到底及びもつかない、必然と存在が一体となっている世界、つまり運命によって動かされる世界を前提としてみれば、意思主義の檻の鍵は外れてくれるかもしれない。 

奥田 敦

2021年3月25日




[1] 意志は決意や決心と結びつくような強い思い、意思は、心に決めたというほどの深さとは必ずしも関係のない考えや思い。法的に言えば、意志は意思に含まれることになる。

2021/02/22

視界は澄み切っているか?:「空気」を超えていけ!

 

『旧約聖書』「伝道の書」は言う。「空の空、すべては空」と。

何をやっても空しいのだ。


地上の多くの知恵と知識を得て、心を尽くして知恵を知り、

狂気と愚痴を知ろうとした。

しかしそれも風を捕えるようなものと悟ったとも言う。

 

「空気」に振り回され、「空気が読めない」と批判を繰り返す社会があるけれど、

その「空気」を作り出すのは人間たちだ。  

 

互いに妬みあい、憎しみあうドロドロした気持ちが、「空気」を生み出し、勢いづける。

 

それにSNSが絡まると「空気」は巨大な雲に発達し、停滞し、とめどない石礫さえ降る。

 

★★

 

かつて、大学の講義で空気を読まずに聖典を読めと言ったことがあった。

「空気」から自由なのが聖典であるし、

澄み渡った「空」に直接つながっているのが聖典のつもりだった。

シンプルにそういうものだと信じていた。

 

たしかにそれは、「空気」が吹き込まれている人の言葉ではない。

 

しかし、読むのは「空気」の空しさが分からない人間だった。

「ワイルン」を願望や祈りだと読むのは人間の側だ。

 

だから、「空気」に流されることのなく世界の変化と創造を見据え、

「聖典」を手掛かりにそして、その檻の中にとらわれることなく、森羅万象を読む。

 

つまり、読むべき本は2つ。

啓示によって下された創造主の言葉によるアーヤ(徴し)と、

この瞬間も創造主の存在を示してくれる、五感に感じることのできるアーヤ。

 

ただ、心にとめておいてほしい。青空からは雨が降らないことを。

雨が降らなければ、命は生まれないし、保たれない。

雲や風に一喜一憂するのに理由もあるのだ。

だからなおさら、その向こう側の存在を忘れない。

 

それを宗教者は「聖なるもの」と言い、

それを恐れることが「知恵」のもとであり、それを知ることが「悟り」であると。

 

★★★

 

また「伝道の書」は言う。「人の語るすべての事を心にとめてはならない」と(7:21)。

 

それは、「他人からの呪いを聞かないため」。

 

自分の胸に手を当ててみれば、心が、「しばしば他人をのろった」のを知っている。

自分以外の人がそうでない保証はどこにもない。

 

だから、他人の言葉をすべて心にとめれば、その呪いが刺し込まれることになる。

 

しかもそれは空気の産物であるだけにたちが悪い。

空気はとめどなく膨張する。心は間違いなく破裂する。

 

結局、誰かを呪えば、それが、自分に返ってくるのだ。

 

こう考えていくと、人の言葉のいちいちを心にとめれば、

自分の呪いに呪われることが分かる。

 

何かと空気にざわつき、振り回されがちな心への戒めがそこにはある。

 

★★★★

 

とはいえ、「空しさ」は止まらない。

どんなによく生きたとしても、どんなにひどく生きたとしても、

死んでしまえば同じだからだ。

 

この事態をいかに乗り切るのか。

 

イスラームは、最後の審判を明確に置くことによって、これを乗り越えようとした。

 

ムハンマドの言行によれば、

中傷も、罵りも、妬みも何も、恨みのもとになりそうなものは端から禁止されている。

 

それでも、それらから離れられないのが人間である。

 

そのことも熟知の上で、あるいはムハンマド自身がそれを認めた上で、

誤りや過不足は、すべて最後の審判に預ける。

 

呪うことを止めることができないなら、どこかでそれをフォローする必要が出てくる。

最後の審判に、その役割が委ねられた格好だ。

 

だから、それを嘘だということは許されない。

最後の砦の破壊だからだ。

 

自分が報復しなくても、アッラーが必ず報復してくれる。

中傷者は、地獄に落とされるのだから、自分がそのことに気をもむ必要はない。

 

それにもかかわらず、怒りも争いも一向に収まらない。

「あざける者を責めるな、おそらく彼はあなたを憎むであろう」(箴言9:8)

 

あざける者を責めても、彼からは憎しみしか出てこない。

そして、「憎しみは、争いを起す」(箴言10:12)

 

「ワイルン」(聖典クルアーン「中傷者章」ほか)が

憎しみの、そして争いの火種になっていなければよいのだが。。

 

★★★★★

 

詩人がやってきた。天国も地獄もない世界を想像してみてって言う。

あるのは、みんなの上の同じ空だけ。みんなが「今」を生きている。

 

国家も宗教もない世界を想像してみろとも言う。

そのために死ぬことも戦うことも殺しあうこともない。みんなが平和に暮らしている。

 

詩人は続けた。

夢みたいなことだと思うかもしれないけど、おれ一人の考えじゃないんだ。

君もいつか仲間に加わってよ。そうすれば世界は一つになる。

 

そこには、おれのものって考えもないんだって。

だから、欲張りもいないし、飢える人もいない。

 

しかも、みんなが同じ言葉でわかりあっている。

 

夢みたいなことだと思うかもしれないけど、おれ一人の考えじゃないんだ。

 

君もいつか仲間に加わってよ。そうすれば世界は一つになるって、詩人は繰り返した。

 

★★★★★★

 

天国、地獄という檻、国家や宗教という檻の中で、

ひたすらに自分の持ち金を数えて、自分だけは永遠に生き続けられるなんて、妄想だ。

 

「利息と高利によってその富を増す者は、

貧しい者を恵む者のために、それを蓄える」(箴言 28:8)だけでなく、

たくさん稼いで実際に困っている人たちに恵んで、みんなで分かち合う。

 

「中傷者章」が想定していない事態。

 

あの世にまでもっていくわけではない。あの世の分をこの世で回す。

 

こちらの方がよほど長持ちする。

究極の外部(幽玄界)を得て人も富も生かされるというものだ。

 

欲を捨て、執着を捨てて、自分に与えられた自分の分を生きられることを楽しみとする。

詩人は、コヘレトからも菩提樹の悟りの主からもヒントを得たようだ。

 

★★★★★★★

 

経済学者[i]がやって来た。マルクスを読み直せと。

人間たちの活動の痕跡が地球の表面上を覆いつくした時代

「人新生(ひとしんせい:anthropocene)」

 

生産手段だけでなく地球を「コモンズ」として労働者が管理せよと。

 

宗教がかつてのアヘンならSDGsが「人新生」のアヘン

地球と人々の暮らしを「脱成長のコミュニズム」で救おうと。

 

詩人と経済学者の間に、『旧約聖書』が見え隠れする。

 

タルムード(モーセ5書をベースにしたユダヤ人の生活規範)を超え、

シャリーア(クルアーンをベースにしたムスリムの社会規範)も超え、

その先の展開を考えよう。

 

物質主義は、地球が壊れるというけれど、人間が壊れ始めている。

 

優れていると自任する一握りが支配する形ではなく、

一人ひとりがこの地上で自分の人生を生きていける道を探そう。

 

★★★★★★★★

 

 

いずれにしても、人の言うことをいちいち気にする必要はない。

空気に押しつぶされそうになったのなら、せめて空の青さを見つけよう。

マインドフルネスの手法の一つでもある。

その青さは、創造主のキャンバスの色。

きっと自分の色がよく映える。



[i] 斎藤幸平『人新生の「資本論」』集英社新書1035A2020922日。

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