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2021/04/13

2021年ラマダーンの開始日について(改訂版)

 

西暦2021年のラマダーンはいつから?

一般に国際的に受け入れられているイスラーム暦によれば、4月13日(火)からです。手元のイスラミックファインダーのイスラーム暦カレンダーにおいても、ヒジュラ暦1442年のラマダーン月は、西暦2021年4月13日(火)からとなっています。

ただし、ヒジュラ暦の新しい月は前月の29日の日没時に、糸を引いたような極細い月が観測されれば翌日から、観測されなければ、翌々日から始まります。

いずれにしても、西暦のカレンダーの前日の日没後以降にヒジュラ暦の新しい月が始まります。よってラマダーン月の実際のスタートも前日、つまり西暦2021年4月12日の日没後以降になります。


観測されなければ、翌日からのスタートになる

当然のことながら、観測は天候状態に左右されます。したがって、その細い月が観測できなければ、ラマダーンの開始も一日後ろにずれることになります。日本で観測できない場合、マレーシアに合わせることが多いのですが、トルコのように、観測の結果にかかわらず、暦通りにラマダーンを開始する国もあります。


今年のラマダーンの断食を始めるのはいつから?

そのごく細い月が無事に観測されれば、今年は4月13日(水)のファジュル(日出の約1時間半前の時刻)からになります。この1か月は、その時刻から日没までの間、食べ物も、飲み物も口にせず、欲望を抑え、怒らず、慎み深く過ごします。


開始日は国によって異なることも知っておこう

ヒジュラ暦は、国によって1・2日ずれていることがあります。たとえば、バングラデシュ。日刊新聞の本日(4月12日)の日付は、シャアバーン(ラマダーンの前の月の名称)28日となっています。パキスタンの科学技術省のイスラーム暦においても本日の日付は、バングラデシュと同様シャアバーン月の28日です。


決めてから行うことが重要

ラマダーンの節制生活は、信者だけでなく、すべての人に開かれています。どなたでも、この節制生活に参加することが出来ます。

たとえ1日でも、試してみることができます。そのときには、「今日は、サウム(節制生活)を行う」と心に決めてから、お試しください。

決めた通りにできないことに悩まされる日常を過ごしていたとしても、食べない、飲まない、怒らない、争わない、欲張らないなどという形の消極的で控えめな方法で「決めたことをやり遂げた達成感」を味わうことができるはずですので。

2021/01/11

『反逆者』、宇宙をも貫く孤高の個としての「私」:丹下京子先生(ベンガル文学者)への感謝を込めて

■『反逆者』との出会い

 バングラディシュの国民的詩人、カジ・ノズルル・イスラムとの出会いをもたらしてくれたのは、かつての職場にほど近くにあって週に何度も通ったインド料理店の店主バングラディシュ人のラフマ―ン氏であった。ヒジュラ暦1441年のラマダーン月のイフタールに連日誘っていただいた。イフタールが済むと、イスラームやムスリムの社会や文化などについて様々な話をし、またいろいろと教えていただいた。

 その後、不幸にもお店に連日通うことはできなくなってしまったが、ラフマ―ン氏とはワンネス(一なること)について様々な構想をめぐらすことになり、その中で、人間観や宗教観についての私の話を聴いて思い出したのが、カジ・ノズルル・イスラムの『反逆者』であったというのだ。アイディアに通じるところがあるので、読んでみてはと勧められた。(『反逆者』については、ラフマ―ン氏に教わりながらのエッセイを、アッサラーム・アクションに連載を開始している

 

■一神教5.0

 ところで、私には、一神教5.0という温めている構想がある。

 1.0がユダヤ教、2.0が、キリスト教、そして、3.0がイスラーム。ここまでは既存の一神教の神学的な展開で説明ができる。

 一神教4.0は、いわゆる多神教を包摂する形の一神教。「信じる人々全体」を結んでいるはずの教えのレベルである。そこでは、〇〇教の神という考えは、乗り越えられる。

 そして、信じるということをしない物質主義者的な人々も含めて共有できる教えが一神教5.0である。そのレベルにおいて、展開されるものが「教え」と呼ぶにふさわしいのか、「神」という言葉を用いるのが適切なのかどうかも検討しなければならないが、人間たちにとって、いや少なくとも「私」にとっては、一神教3.0では、閉塞的な状況を助長することはあっても打開してくれるようには思えない。 

 

 ■『反逆者』の中の私

 さて、ノズルルイスラムの『反逆者』の中の「私」は、

 

の, 

し,

う!

グ,

す!

く!

丹下京子『」:』「第5号」(1993年)、44頁

 

る,勇る―り,宇え,頭た!


 丹下は、この「私」を、「即」,つた」ものと説明している。

 その「異次元の私」について丹下は、「,,宇え,頭は,全に,全に,唯る.」としている。

 

■神を凌駕する「私」

 また、この普遍的な私の背景にあるベンガル文学における「私」の位置づけに関する説明も参考になる。

 丹下によれば、近代以前のベンガル文学の主流は、ボイシュノブ(ヴァイシャナヴァ)と呼ばれる、西洋的な概念では抒情詩に当たるジャンルであり、サンスクリット文学のジャヤデーヴァをその源に持つその抒情詩群が、ラーダーとクリシュナの恋物語をうたい、数百年にわたって維持してきた安定的な「あなた」(=神)と「私」(自己)の世界を維持してきたという。

は,ボブ(ヴァ),つの―西な―る.もが,近る.そは,サち,繰い,そ」(=神)と」(=自己)のる.」(丹下京子『」:』「第5号」(1993年)、48頁)

 

 「は,多た.そ綿た.そ言―え―る.」丹下京子『」:』「第5号」(1993年)、50頁

  「そ」,どが,ノお,際る.」

丹下京子『」:』「第5号」(1993年)、48頁

 

■ワンネスの世界育てるバングラディシュ

 クルアーンに照らしてみれば、反逆者としての「私」は、まさにアッラーに成り代わったような「私」であるが、アッラーを人間の言葉の檻の中に閉じ込めて、あるいは、アッラーという権威の屋根の下に人間を閉じ込めているような状況下においては「反逆者たれ」である。永遠の反逆者は、凌駕された「あなた」が、再び、永遠の反逆者にふさわしい「あなた」になるのを待っているのかもしれない。

 「一神教5.0」では、普遍性、永遠性、「私」、「あなた」 などの諸概念に徹底的に反逆して、あたらな創造を行なうことが当面の課題になる。人が決定的に一人なのだとすれば、そして、人が一人で生き切れるほど強くないのだとすれば、それを受け止めてくれる、一人ひとりにとっての「あなた」なり「居場所」なりは構想しなければならない。一人や一つということがどこまでも貫かれるワンネスの世界とでも言えようか。その場所として、あるいはその担い手として、ノズルルイスラームの『反逆者』に今なお心震わせるラフマ―ン氏のような人物を生み出す、ムスリムでありながらもベンガル語による豊かな詩の世界を愛するバングラディシュの人々はきっととてもふさわしいのだと思える。

 

 なお、すでに1993年の段階でこのように現代においても示唆に富む論考を発表されていた丹下京子先生にこの場を借りて感謝申し上げます。大変参考に、そして勉強になりました。ありがとうございました。

 先生の『ノズルル詩集(花社)が入手できないで困っております。入手方法などについてご存知の方、assalamaction@gmail.com アッサラーム・アクションまでご一報いただけたら幸いです。)


参考文献

 丹下京子『」:』「第5号」(1993年) https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjasas1989/1993/5/1993_5_39/_pdf

2021/01/08

国民的詩人カジ・ノズルル・イスラームの『反逆者』を読む⓵

  বল, বীর (バロ、ビーレ)

Say, Valiant, 

「宣言せよ、勇者よ」(丹羽京子による邦訳『「反逆者」に現れた「私」:近代詩人としてのカジ・ノズルル・イスラム』(1993年「南アジア研究」第5号 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjasas1989/1993/5/1993_5_39/_pdf)

で始まるカジ・ノズルル・イスラームの『反逆者』(বিদ্রোহী ビドローヒー Bidrohi, the Rebel,1921)。

命令文で訳出されているが、原文のニュアンスはまったく異なると畏友ラフマーン氏に教えていただいた。現に、冒頭の বল がもしも命令形であったのなら、বলুন となっているはずである。 

それに、命令形を使えば、民衆を扇動したかどで当局の拘束されてしまうという時代的な状況もある。

今後さらに精査を重ねる必要はあるが、「勇者よ、心の中から沸き起こる言葉があるはず」といったニュアンスだと理解した。

ここにいう勇者とは、呼びかけられているひとり一人のベンガルの人々が本来そうであるはずの姿なのである。つまり、当時、英国支配のもとですっかり飼いならされてしまった人々の中にあるはずの誇り高き人間性、あるいはベンガル人の輝く魂といった、彼らの内面、あるいは、もう一人の本来的な自己を英雄に見立てて呼びかけたのである。

彼らを心の芯から奮い立たせる最初の言葉が、

 

বল উন্নত মম শির! (Bala unnata mama śira!)

Say: High is my head! 

宣言せよ、私は頭を高く上げている(丹羽京子による訳)

 

命令文ではないとすれば、「自分の頭は高いところにあるという言葉(がある)」とでもいえようか。この訳では、とても、人々を奮い立たせることはできないが。。)。

表現されていることはと言えば、頭は、主人に対する服従や恭順を表すために低いところにあるものではないということ、つまり権力者の目の前の地面や彼の手に擦り付けるためにあるのではないことを、お前は英雄なのだから思い出せということなのである。

みな人間なのだから、権力のあるなしにかかわらず、頭は高いところにあるものなのだということを思い出せと。。

冒頭の2行に過ぎないけれども、それでも圧倒的な地上の権力に対する徹底的な反逆の詩が、『反逆者』であることが伺える。

植民地支配の時よりはるかに巧妙に反逆者になることを諦めさせる有形無形の力が働く現代である。私たちにとっての反逆とは、何に対して何を目指すものなのか。これから数回にわたって、ラフマ―ン氏に教えを請いつつ、ベンガル語のテキストとベンガルの人々の心情も訪ねながら『反逆者』を読んでいこうと思う。



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