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2021/01/10

「クルアーン、スンナが時空を超えた真理を湛えている」について批判的に考えてみる

奥田は、「クルアーン、スンナが時空を超えた真理を湛えているのに対して、イジュティハードはそうした真理を個々の具体的な状況の中に取り込む人間の側からの働きかけである」とクルアーン、スンナとイジュティハードのイスラーム法の法源における位置関係を説明している(奥田敦『イスラーム法における法発見の必然性と必要性』博士論文、2004年。1頁)

アッラーは、真理によって創造を行なったのであるからそのアッラーから彼の預言者ムハンマドを通じて下されたクルアーンは真理であり、アッラーの御使いでもある預言者ムハンマドの言行もまたアッラーの真理によって裏打ちされているものであるとするならば、たしかに、クルアーンとスンナは時空を超えた真理を湛えているということができる。

ここで気になるのが、「時空を超えた真理」である。時空を超えるとはいったいいかなる事態であろうか。

物質主義者の言を借りれば、科学的に人類が知っているいちばん長い期間としての時間は、人類誕生から現在までということになる。もちろん、生命の誕生、地球の誕生、あるいは宇宙の誕生にまでさかのぼってもよいかもしれないが、仮に宇宙の誕生からの138億年を超える状況を想起できるのか。

同様に空間を超えるといったときに、地球はもちろん、宇宙空間、光速以上の速さで膨張し続けているとされる空間を超えるという状況を想起できるのか。

光速以上で膨張し続けていたとしても、情報の伝達は光速を超えられない(https://tmcosmos.org/cosfaq/faq/faq003.html)ため、空間自体は膨張しているにもかかわらず、情報のレベルでは光速は越えられないという状態においてなお、空間を超えているという状況を想起できるのであろうか。

日常的な言葉づかいに引き付けてこのことを考えてみよう。

時空を超えるとは、時間や空間の壁を越えるという意味合いで使われることが多いようで、時代や場所、あるいは、次元を超えてやってくるとか、行き来するとかの用法になじみがある人も多いようだ。

永遠もまた、時空を超えたところにあると言えるが、時空を超えることの説明と同様、物理的にそれを想起し検証することには、それこそなじまない概念といいうるのではないか。

さらに、「永遠に」は、国家や支配者たちの、常套句として用いられることがあるけれど、宇宙の膨張を超えることまではとても想定されてはいない。

いつでも、いつまでも、どこでも、どこまでもといった言葉に置き換えることも可能で、こちらは恋人たちの常套句であるけれど、むしろ儚さが漂う。

つまり、「時空を超える」という事態は、光の速さの制約をかけられている「見える」ことによる確認、つまり科学的な検証可能性とは別次元の事柄なのである。

つまり、「時空を超える」とは、たとえば、ともにあること、ともにいることが「ずっと」続くと「信じる」、あるいは「願う」、あるいは「祈る」ことによってはじめて生じる事態なのである。

 そうであったとするならば、「時空を超える真理」は、「真理だから時空を超える」のではなく、「時空を超えると信じるから真理になる」ということになり、科学的な意味で時空を超えているのかどうかとは、まさに別の次元の話になる。

奥田が陥っていた間違いは、時空を超えた真理は、時空を超えているのだから真理であり、それが真理である以上、イスラームの信徒のあるなしにかかわらず、普遍的に妥当するはずであるし、普遍的に妥当すべきだと考えていたところであろう。

イスラームの信徒にとっては、そうした配列で整合性が取れるのかもしれないが、アッラーの存在を信じるところからしか、時空を超える真理が成り立たないのだとすれば、信じない人々にとっては、時空を超える真理などあろうはずがないということになる。

となると、「クルアーン、スンナが時空を超えた真理を湛えている」という奥田の言明は、イスラームではそうなのですねという了解にはつながっても、イスラーム以外においても、クルアーン、スンナが真理であるということにはならなくなる。

これを前提とした法体系では、正義も真理も常にそしてすべてイスラームの側にあることにしかならず、イスラーム以外の人々は、信仰を呼びかけられることはあっても、呼びかけることはないし、圧倒的に教えられるだけであり、対立や敵対の火種をかこつことはあっても、フラットな協調的な関係になることはほとんど難しいのではなかろうか。

とはいえ、人間同士である以上、分かり合える何かは有しているはずであるし、信仰のあるなしにかかわらず、そのことを認め合えるような、信者としての人間ではなく、人間としての人間を守る法がむしろ求められてはいないであろうか。

奥田が「クルアーンとスンナが時空を超えた真理を湛えている」と説明している意味での、クルアーンとスンナ、そしてそれらが湛える時空を超えた真理を「超えた」法源の探究が、人間の法の構築に必須なのである。イスラーム法における法発見の必須性はここにあるのではなかろうか。

それは、聖典によれば、アッラーが、慈愛に満ちた万有の主であって、イスラーム教徒のみの主ではないにもかかわらず、イスラーム法は、イスラーム教徒の法でしかなく、彼ら以外に対しては一段下に見たような対応しか行わなわず、あるいは、イスラーム教徒の法ですらないという状況のまま、進化を止めてしまっている問題と言うこともできる。


2021/01/07

聖典クルアーンとスンナは究極的で絶対的な法源なのか:イジュティハード新論⓵

 

イスラームの教えにおいては「アッラー以外に神はなし、ムハンマドはアッラーの御使いである」ことをあらゆる事柄の究極の原則とする。(奥田敦『イスラーム法における法発見の必然性と必要性:イジュティハードからみたシャリーアという法』(2004年、中央大学に提出した博士論文の第1章の第1文)

この文言は、信仰宣明の際に唱えられるフレーズでもあり、イスラームの信仰の柱である。

2つの部分からなる。まず、アッラー以外に神はいないということ。そして、ムハンマドはそのアッラーから遣わされ、教えを伝える預言者であったということ。

自身もイスラームの信者である奥田が、イジュティハード(イスラーム法における法発見の学問的努力)の必然性と必要性を論じるにあたり、この1文から始めたのは、当然と言えば当然である。

奥田は「あらゆる事柄」とはとして「たとえば現世のことも来世のことも、自然現象も超自然現象も、個人的な事柄も社会的な事柄も包括する」と説明する。

イスラーム教徒にとっては、そのような世界の分節化は了解可能のであるとしても、これらの事象は、彼らだけのものではないし、分節の仕方が異なりうるのも容易に想像できるが、「あらゆる事柄」を論じるにしては、かなり乱暴に2項対立を提示している。

信仰のレベルの話だけであるのなら、それはそれで許されるかもしれないが、奥田は、立法もその例外ではないとして「民族、人種、伝統、文化の違いを超越したところに位置する絶対の立法者がアッラーであり、その教えを実践し広く人類全体に伝えるために遣わされたのがアッラーの御使いにして預言者たるムハンマドである」と続けている。

この「民族、人種、伝統、文化の違いを超越したところに位置する絶対の立法者がアッラーである」という言い方を奥田は長く好んで用いてきたが、これもまた舌足らずと言わざるを得ない。言葉の用い方一つから考えてみても、もしもすべてを包括する存在なのだとすれば、包まれるのは超越だけではないはずだ。

超越の反対語、たとえば「内在」もそこには含まれなければならない。ということはつまり、民族、人種、伝統、文化といったものの違いを超越するのではなく、その一つ一つの中に内在する存在でもあるのだ。

民族、人種、伝統、文化といったもので括ってみたところで、同じ指紋を持つ人が二人といないのと同じように一人一人は異なる。「立法」に関する議論なので、規律の統一性といったところに誘導しようとする奥田の意図が透けてみえるが、内在する存在でもあることにも着目できれば、他の人と違っているのは当たり前で、あなたが生きているというだけであなたはその内在者からあなたの存在を無条件で肯定されていることにもつながる。

アッラーは、立法者である前に「慈愛あまねき、慈悲深き御方」である。アッラーの慈悲慈愛のうち人間が知っているのは一種類に過ぎないとは預言者ムハンマドの言葉ではあるけれど、ありとあらゆる多様性を含み持ち、どれ一つとして排除することがないという地平がそこには用意されていることになる。

しかし、イスラーム法の世界には常に排除がついて回ってはいないだろうか。そう、対外的にも対内的にも。不信心者を排除し、背教者を極刑に処するといったルールが想起されるかもしれない。

奥田は、不信心者の排除に関しては、武力によるジハードだけがジハードではなく、むしろ平和裏の信仰の呼びかけにこそジハードの本来があるとして、不信心者の排除は当たらないと主張してきた。しかし、そこに信者と不信心者という2項対立が下敷きになっていること自体が問題であるという種類の指摘を見出すことはできない。

背教者に対する極刑については、たとえば日本国刑法の内乱罪の最高刑が死刑と規定されていることを引き合いに出し、秩序に対する反逆への刑罰という点で理解できないものではないという説明を行なっていた。しかし、個人的に信仰を捨てることと社会秩序の暴力的に破壊することの差の持っている質的な違いについて認識不足を指摘されても仕方のない状態である。

 そうした法的な判断の根底に位置するのが、イスラーム法の法源論である。「アッラー以外に神はない。ムハンマドはアッラーの御使い」という命題は、イスラームの「立法」あるいは「法学」において「神の言葉であるイスラームの聖典クルアーンとムハンマドの言行(スンナ)がイスラームの法、すなわちイスラームのシャリーアにおいて究極にして絶対の法源となる」と読み替えられる。そして「イスラームの法の世界においては、法規なり、法的判断なりがクルアーンとスンナからの証拠に依拠できているかどうかが最大の問題」となっていくと一切の疑いをさしはさむことなく奥田は、イジュティハードの説明に入っていく。

「ムハンマドの時代に法規なり判断なりの与えられなかった新しい事態、すなわちクルアーンとスンナに直接の根拠が見出されない事柄について」は、人間の側から法発見の努力、すなわちイジュティハードが行なわれなければならないという流れである。

しかし、「アッラー以外に神はない。ムハンマドはアッラーの御使いである」の法源論的表現が、「アッラーの言葉であるイスラームの聖典クルアーンとムハンマドの言行(スンナ)を究極的で絶対的な法源とする」こと自体に疑問を呈しておく必要がある。

アッラー以外に神はない、ムハンマドはアッラーの御使いであることは聖典に下されているが、クルアーンとスンナが究極的で絶対的な法源であるとは、シャーフィイー(西暦767-860年)の整理によるものに過ぎない。

神が行なったことと人間が行なったこととの間に明確な線を引くイスラーム的な考え方にしたがった場合でも、シャーフィイーのこの整理は、見直される余地がある。つまり、アッラーからのメッセージをムハンマドを通じて下され、聖典クルアーンとしてまとめられたテキストのみに限定したのは、人間が行なったことにすぎないからである。

クルアーンに書かれているからという理由で、それが下された文脈も無視して、あるい一節や、ある言葉がルールの正当化が行なわれるようなことがあったとするならば、それではアッラーを立法者としたことにはならない。

聖書のテキストも人間が創り出したものであり、それが、聖典として長い時間をかけて連綿と唱え続けられてきたため、真理であると信じられるようになったに過ぎないといった、物質主義的な考え方にしたがったならば、たとえばクルアーンを究極的で絶対的な法源などと規定してしまえば、日々刻々と更新されるアッラーの創造の徴には目を瞑って、すでに下されている徴だけに依拠せよということにもなってしまう。

イスラームの教えによれば、預言者はムハンマドで最後である。しかし、アッラーの創造自体は止まることも終わることもない。アッラーからのメッセージを携えて人々に伝える預言者はもう現れないことについて、奥田は、これからは人間がクルアーンとスンナをベースにイジュティハードで法を発見していけということだと論じた。

しかし、クルアーンの節が徴(アーヤ)であって、法源になるのならば、アッラーの存在の徴もまたアーヤとされるのであるから、法源になりうるものである。下されたアーヤにたいして観られるアーヤとされるものである。

人間がやるべきは、クルアーンとスンナの解釈だけではない。法源として扱えるアーヤをアッラーの日々の創造の中にたゆまず探究し続けることも、創造主を立法者とする法体系において人間が人間だからこそできる寄与ということになる。

アッラーは万有の主である。万有とはこの世のすべての存在、あるいはすべての人々である。万有の主の法の法源が、人々に思考停止を命じ、主の創造に対して目を瞑るようなものであったのでは、とても、万有はそれを共有できないし、共有しようともしないであろう。

奥田のイジュティハード論は、法の目的論や福利の実現などの議論によって幅を持たせたとしても、つまるところクルアーンとスンナを絶対視したうえでの法解釈論の展開に過ぎない。この議論では、この世に生を享けた凡てのものの多様性を包摂し、共生を実現する法の構想には、まったく用が足りない。

奥田が展開したイジュティハード論およびイスラーム法論の批判的検討を通じて、すべての人々が受け入れることのできる法の在り方を引き続き探究していきたい。

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