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2021/08/18

「タリバーン」の件。朝日新聞から回答:18日から「タリバン」に変更

 朝日新聞東京本社お客様オフィスより回答があった。

「他の多くの主要メディアが「タリバン」を使っている現状を考慮し、17日に「タリバン」の表記に変更することに決め」、「本日18日付の紙面から反映されています」とのこと。

 

 本日朝刊1面に「おことわり」も掲載されていた。

 

 理由については、「これまで外務省の表記に合わせて「タリバーン」を用いて」きたとのこと。

外務省がなぜその名称を用いているのかは不明だが、確かにそのように使われている。理由が気になるが、伝えられている現地の状況を考えれば、それを問い合わせるのは今ではない。


 

 

タリバンの国家運営が、

1.人権:人間がただ人間であるという理由だけで尊重され、実際に守られる人権

2.多様性:部族・種族の相互理解と協力

3.個の変化:一人ひとりの変化から国全体を変えていくこと

4.自分自身に対するジハード:テロリズムからの決別

(いずれも、聖典クルアーンに根拠を求めることができる)

に基づくものになることを願う。


「タリバーン」という朝日新聞の呼称に違和感:質問を送ってみた。

 

「タリバーン」という呼称について

 

  イスラーム法とクルアーン、アラビヤ語の研究者です。

 アフガニスタンの政権崩壊の報道で御社は、「タリバーン」の呼称を用いていますが、「タリバン」でも「ターリバーン」でもなく「タリバーン」とされている理由を教えて下さい。

  ちなみに、アラビヤ語では、「ターリバーン」とするのが言語にいちばん近いですし、アラビヤ文字を用いるパシュトー語の表記を見ても「ターリバーン」と読めます。

ご教示のほどよろしくお願いいたします。

  なお、余談ですが、イスラーム法的に言えば、ターリバーンの極端な形で土着化したイスラーム法解釈にイジュティハードにより対案を示せれば、イスラームの民主的な側面を引き出し、権威主義と民主主義ををハイパーに統合するイスラーム的な政体の樹立が可能なはずです。

 

 アメリカの成功体験である戦後の天皇制から日本的民主主義への誘導は、神の性質がまったく異なるため、イラク同様、ここでも不可能です。

 

 また、政教分離と政教の緊張関係が前提になっているキリスト教的な秩序観にはイスラーム法を的確に位置付けることができず、したがって、神は人権を与えるだけでなく、守ることまで行うという発想が出てこないため、どうしても軍事力の継続的行使に頼ることになるのだと思います。

 

 曲がりなりにも、法で動いている人々です。たとえば、ジハードの現代的な意味一つ学んでもらうだけでも、もっと平和的に事態を収拾できるのがイスラーム法であるはずと、研究者の立場からは考えます。

 

 カールシュミットが言うように政治に固有なる区分が「敵、味方」であるなら、そのこと自体を問い直さない限り、この問題は解決しないように思います。

 

 「自分たちの意に沿わない人に対し、惨い仕打ち」(「天声人語」2021年8月17日)を行なってきたのは、つい昨日までの自分たちの姿ではなかいでしょうか。

 

 国際社会に期待しても何も出てこないのが残念ながら現状であり、新たな敵・味方の分断ができるだけ。国際社会に対して「敵・味方」ではなく、まずは自分自身が変わることによって国を変え、互いに協力し合い、豊かな多様性の世界を築いていくことには、多くの賛同が得られるのではないでしょうか。ただ、それを教えているのが、聖典クルアーンであることを、多くのイスラーム教徒が知らないというのも現状です。

  軍事力によってしか守られない民主主義と、軍事力によってしか守られない専制主義という二律背反を超える考え方をターリバーンにも理解してもらえる形で探究したい(と考えています)。

 

( )は、字数制限の関係で割愛

 

回答が届いたら、お知らせいたします。

 

2021/05/13

イード・ムバーラク!

節制生活お疲れ様でした

2021年のラマダーンが最終日を迎えました。節制生活を送られた皆様、本当にお疲れ様でございました。
今年は、コロナ禍で全世界規模でイードの礼拝も自宅にて行うことを余儀なくされております。



自宅で行うイード礼拝


そこで、自宅で行うイード礼拝の最低限をお知らせしてみます。


まず時間ですが、日の出の45分後からズフル礼拝の45分前まで。
時間的な余裕をみれば、東京近辺の場合は、6時半から10時半の間に済ませれば問題はないでしょう。

イードの礼拝は、2ラクア


回数は、ファジュルの礼拝と同じ2ラクアですが、タクビール(「アッラーフ・アクバル」と唱えること)の回数が違います。


一回目のラクアでは、合計で7回。2回目のラクアでは、合計で5回です。

一回目のラクアでは、「ファーティハ(開端章)」の後に「(アル・アアラー)至高者章」(第87章)をそして2回目のラクアでは、「ファーティハ」の後に、「アル・ガーシヤ(圧倒的事態章)」(第89章)あるいは「アッ・シャムス(太陽章)」(第91章)を読むのが、スンナ(ムハンマドの言行)であると、モロッコのイマームによる下のURLでも説明があります。


そのURLではコロナ禍でモスクで祈ることができない非常事態のためにと、家でのイード礼拝がコンパクトに示されています。イメージがつかめないようでしたら、参考になさってください。
https://www.youtube.com/watch?v=KXO9Kf37WI4

イード礼拝の後は、通常であれば、訪問などを行って、1か月間の喜びを分かち合うとともに、互いのつながりを大いに温めるところですが、今年は、そのあたりの工夫も求められています。


「この世でもよく、あの世でもよい」

空爆するお金があるのなら、ワクチン接種に使ってください。
打つべきはロケットやミサイルではなく、ワクチンです。

立てるべきは、自分たちだけの権益や正義を守るための壁ではなく、世界の津々浦々に届く集団接種によるコロナウイルスを封じ込める免疫の壁です。


来世に託す前に、まだまだやれることはあるはずです。

当ブログの読者の皆様に、そして信者であるなしにかかわらず、世界の一人ひとりに皆様に、慈愛あまねき、慈悲ぶかき御方のご加護と祝福がありますように。

イード・ムバーラク


2021/05/01

ラマダーンの「サウム」を「斎戒」と訳すことについて

ミツバツツジの花言葉:節制・抑制のきいた生活
少ない水の環境に耐え見事な花を咲かせることに由来するという


ラマダーンは断食か?

 今年のラマダーンも後半に入った。昨年に引き続きコロナ禍で信徒同士のイフタール(日没後の断食明けの食事)もままならない日本でのラマダーンである。

ラマダーンとは、何かと問えば、断食のことだと答えが返ってきそうだが、正確を期していえば、ラマダーンとは、イスラーム暦第9月の名称であり、断食は、その第9月の間に信徒たちが義務として行う行為の一つである。

「断食」という言い方は、分かりやすいので、ラマダーンとは「断食月」であるという言い方もなされるが、断つものは食だけではない。口から入れるものは控えるので、水も飲まない。喫煙もしない。

怒らないし、争わないし、欲しがらない。男女の交わりもなしだ。

そうしたことすべてを表すのに、「断食」では、どうにも用が足りない。代表的な行為ではあるけれど、断食に限定されるものではない。


「斎戒」とは

そこで、しばしば「斎戒」の語が用いられる。筆者も長く、「ラマダーン月の斎戒」(最もシンプルにアラビヤ語でいえば、「サウム・ラマダーン」)を定型的な表現そして来た。

ところが「斎戒」という言葉が、日常生活になじみがない。しかも、その意味が、「祭祀(サイシ)などを行う者が心身を清浄にすること。」などであるため、祭祀でもないのに、「斎戒」となってはいよいよ何だか解らない。

(「斎」は心の不浄を浄める意、「戒」は身の過ちを戒める意)飲食・動作を慎んで、心身を清めること。」(『広辞苑』)との説明の「飲食・動作の慎み」は、「サウム」の語にだいぶ重なっているかもしれない。

しかし、「斎戒」に「断食」ほどの分かりやすさはない。ただでさえ訳の分からないものと敬遠されがちなイスラームである。そこへもってきての「斎戒」。それならば、いっそ断食としてしまった方がよいのかという気にもなる。

ところが、「断食」とだけしてしまうと、断食だけすればよいという誤解を生むことにもなりかねない。そして、水も飲まないのですねと変に感心されたりもする。ムスリムの親たちの中には、食べなかったことのご褒美としてお小遣いを与える者たちもいる。

「斎戒」でも「断食」でも用が足りない。こういう時には、クルアーンが下されたアラビヤ語で「サウム」という言葉が、いったいどういう意味なのかから考え直してみると見えてくるものがある。


「サウム」とは

「サウム」には、一般的な意味もある。「節制、控えること、慎むこと」などである。その動詞形である「サーマ」が、アンという前置詞を従えると、「~を控える、慎む」という意味になる。

控えて、慎む。食べることも飲むことも、怒ることも、争うことも、欲しがることも。

そこにあるのは、徹底的な節制である。そうであるならば、ラマダーン月は、節制の月ということもできるのではないか。

しかも、決意をもって、これを行う。意志して何かをやり遂げることが人間に固有の行為であるとするならば、まさに、人間であることの証明にもなる。

誰かの役に立つとか、社会のためになるとかという形では、人間であることあるいは生きていることを実感するのは、難しいかもしれない。

ラマダーンの節制生活は、引き算だ。食べない。飲まない。怒らない。争わない。欲しがらない。。誰かのためとか社会のためとかに対して行う善行の足し算より先に、とにかく引き算。その引き算で生じた1か月間の「差」が、最終的には全体の「和」につながるという考え方だ。

今風に言えば、ラマダーンのサウムによって、一食分は抜くことになるので、食品ロスを減らすことによるSDGsの実現にもつながりうる。


日没とともに断食は解かれる

ラマダーン月の節制は、日々更新される。この点が実はポイントである。

日没を迎えると、断食をはじめとする節制生活は解かれる。その時の食事が断食状態を破るという意味のイフタール。一滴の水、一粒のナツメヤシが、身体にしみわたり、生きていることを実感できる瞬間だ。神に感謝。そして今日もがんばれた。今日もがんばったと、自分を確認する。

そのイフタールだが、家族のみならず、信者どうし、ときには、信仰を超えた友人たちも交えて、行うことが多い。イフタールを共にして、神への感謝と生きている実感と喜びを共有する。忍耐を共にした者同士だからなおさら、絆が一気に深まる。

それだけにコロナ禍が、サウムの効果に与える影響は、深刻だ。それは、マグリブ後にも節制を要請する。とはいえ、この節制生活は、信者であるなし、特定の信仰のあるなしにかかわらず、世界中が要請されている。


「個」であることを見つめなおす

言葉をばらばらにすることによって、言語が異なる者同士のコミュニケーションを難しくしたのがバベルの塔の話だとするならば、コロナの話は、人々に、たとえ同じ言葉をしゃべっていたとしても、あるいは、異なる言語を理解していたとしても、まずは一人ひとりがその指紋が異なるように互いに異なる個であることを、教えてくれてはいないか。

そうであればこそ、既存の「われわれ」という括りを超えて、労わり合い助け合えるというものではなかろうか。

モーゼの共同体とか、イエスの共同体とか、ムハンマドの共同体とか、あるいは、国家とか民族とかイデオロギーとか、階級・階層とか、あるいは、性差といったことまで含め、そういったものの檻に幾重にも閉じ込められていた「小さなわれわれ」。

コロナ禍のイフタールは、そういったことについて考えるチャンスにもなっているように思える。

残り半月を切りました。この月にこの地上で節制生活を送っているすべての人々の神のご加護と祝福と平安がありますように。




2021/04/13

2021年ラマダーンの開始日について(改訂版)

 

西暦2021年のラマダーンはいつから?

一般に国際的に受け入れられているイスラーム暦によれば、4月13日(火)からです。手元のイスラミックファインダーのイスラーム暦カレンダーにおいても、ヒジュラ暦1442年のラマダーン月は、西暦2021年4月13日(火)からとなっています。

ただし、ヒジュラ暦の新しい月は前月の29日の日没時に、糸を引いたような極細い月が観測されれば翌日から、観測されなければ、翌々日から始まります。

いずれにしても、西暦のカレンダーの前日の日没後以降にヒジュラ暦の新しい月が始まります。よってラマダーン月の実際のスタートも前日、つまり西暦2021年4月12日の日没後以降になります。


観測されなければ、翌日からのスタートになる

当然のことながら、観測は天候状態に左右されます。したがって、その細い月が観測できなければ、ラマダーンの開始も一日後ろにずれることになります。日本で観測できない場合、マレーシアに合わせることが多いのですが、トルコのように、観測の結果にかかわらず、暦通りにラマダーンを開始する国もあります。


今年のラマダーンの断食を始めるのはいつから?

そのごく細い月が無事に観測されれば、今年は4月13日(水)のファジュル(日出の約1時間半前の時刻)からになります。この1か月は、その時刻から日没までの間、食べ物も、飲み物も口にせず、欲望を抑え、怒らず、慎み深く過ごします。


開始日は国によって異なることも知っておこう

ヒジュラ暦は、国によって1・2日ずれていることがあります。たとえば、バングラデシュ。日刊新聞の本日(4月12日)の日付は、シャアバーン(ラマダーンの前の月の名称)28日となっています。パキスタンの科学技術省のイスラーム暦においても本日の日付は、バングラデシュと同様シャアバーン月の28日です。


決めてから行うことが重要

ラマダーンの節制生活は、信者だけでなく、すべての人に開かれています。どなたでも、この節制生活に参加することが出来ます。

たとえ1日でも、試してみることができます。そのときには、「今日は、サウム(節制生活)を行う」と心に決めてから、お試しください。

決めた通りにできないことに悩まされる日常を過ごしていたとしても、食べない、飲まない、怒らない、争わない、欲張らないなどという形の消極的で控えめな方法で「決めたことをやり遂げた達成感」を味わうことができるはずですので。

2021/04/05

自由意思という檻

1.「行為は意志による」というハディースがある



これまで、このハディース(アッラーの御使いムハンマドの言行を伝える伝承)を行為規範の根拠として、つまり、「行為とは意志によって行われるものであり、意志によって行われた行為は、その人のものとして、ルールがある場合には法的な責任を負わされる」と読んできた。

ハディースは、イスラーム法において聖典クルアーンと並んで不易不動の法源をなすが故に、行為は意思によるという考えはイスラーム法の基本原則の一つと見ることができる。そして、もちろん、この意志主義とでも呼ぶべき(法律用語としては「意思」主義)は、近現代の社会規範の柱をも形成している。社会関係の動因をなす行為は原則として「意思」によって行われるものであると。

意志は決意や決心と結びつくような強い思い、意思は、心に決めたというほどの深さとは必ずしも関係のない考えや思い。法的に言えば、意志は意思に含まれることになる。[1]

自由意思に従って、職業を選択し、働き、契約を行ない、物を所有し、職業を選択し、住む場所を決め、旅行もすれば、買い物もする。人と付き合い、恋愛をし、将来を誓い合って、結婚をしたかと思えば、離婚もする。

そうしたもろもろの「意思」「意志」「決心」「決意」は、しかし、残念ながら、大概はうまくいかない。よいと思って就職した先が倒産する。首切りにあう。最高のコスパを見込んで買った商品がすぐに故障する。無料の文字に踊らされて結んだ契約が無料期間を過ぎたら割高な料金の設定になっていた。寝に帰る場所としてパワーマンションを購入したとたんにコロナ禍の在宅テレワークで手狭で息苦しくて仕方ない。上がると思って買った株がすっかり暴落、手放した途端に金余りの資金流入で高騰。。

そのときにはそれなりに考えて決めたとしても、結局、思慮が足りなかったと後悔する。

夏目漱石『夢十夜』第7夜の「自分」もそうだ。あまりのつまらなさ、解消を見通せないつまらなさから入水を図るものの、(「不定そのもの」による一人も殺さないセーフティーネットの存在はこの際さておくとして)もう取り返しがつかない。

「やっぱり乗っている方がよかったと始めて悟りながら、しかもその悟りを利用することができずに」という状況である。

やらかしてからでないと「悟り」を待つことのできない「決心」。困ったものだが、これが「自分」の現実。つまり、決心であろうが決意であろうが、人間の意思は当てにならないのである。

人間はこんな「決心」もできてしまう自由意思の虜なのだ。





2.悟りを得れば、自由意思の言いなりになどならないのではないか。



「自分の心に頼む者は愚かである」(箴言28:26)と旧約聖書は言う。

「思慮ない者よ、悟りを得よ、愚かな者よ、知恵を得よ」(箴言8:5) とも。



宗教を否定する「近代」にあって、これらの言葉はまともに取り合ってもらえない。それこそ空しい状況である。「知恵」を「悟り」をと呼び掛けても、心に頼む人々、そして、それによって儲ける人々、儲ける人々にとって人々の悟りは禁物だ。悟られたらおしまい。愚かなままに留めおくために必要なコト。心を動かし続けるもの。頼れるのは、エンターテインメント。喜怒哀楽の追体験として、ときに陳腐でさえある氾濫する物語。
近代という時代は、愚か者を量産する。


楽しいことならまだよいかもしれないが、心がくたくたに疲弊することも生じうる。1886年にフロイトが一般開業医としてヒステリーの治療を始めた。精神分析学の曙光である。心に病があり、それは治療できるものと位置づけられるようになる。心の病。人々のストレスが臨界点を超えたということであろうか。当然の帰結と言えば当然か。

そんな病理を構造的に生み出すような時代に、自己責任論、何でもかんでも自分の意思のせいにする考え方はそぐわない。たしかに、自由権を得るために多くの血が流された。ようやく勝ち取った自由権かもしれない。しかし、自由になってみると、こんどはその自由に翻弄される。自分の意思があまりに頼りない。自分を裏切る自分、自分にがっかりさせられることもしばしばだ。



3.この意思の檻から解放されるために:悟りと知恵



すべての行為は意志によるという言明を「あの行為は意志によるものだった」と単なる叙述として読んでみるというのはどうであろうか。

たしかに「意思」によって行為はなされる。誰であっても、思うところというのはある。思うところは人それぞれである。アッラーの道のためにとマディーナに移住した者もいれば、結婚をしようと移住した者もいる。

「意思」によらなければならないとか、「意思」によって行われるが故に意思の持ち主がその行為の責任を負わなければならないといった規範的な意味をシャリーアの体系は読み取ろうとするが、立法者たるアッラーと、来世の存在が明確な体系(それらはしばしば恣意的に用いられてしまうのだが)。それに対して、近代の意思主義では、すべてを拾い、最後まで寄り添うような立法者の存在も、遂げられなかった思いが実現される最後の日のようなものも想定されてはいない。


思わぬことを思ってみる、思うこと自体を止める時間を作ってみる。行為は意思によるのかもしれないが、人間は24時間意思するものにあらず。自分が思っていることがすべてではない。主の知を知る努力を怠らないこと。主と向き合う時間を作ること。不定そのものから適切に私たちの在り方を引き出すためにも、究極的な存在が存在することを想定し、人間の意思では到底及びもつかない、必然と存在が一体となっている世界、つまり運命によって動かされる世界を前提としてみれば、意思主義の檻の鍵は外れてくれるかもしれない。 

奥田 敦

2021年3月25日




[1] 意志は決意や決心と結びつくような強い思い、意思は、心に決めたというほどの深さとは必ずしも関係のない考えや思い。法的に言えば、意志は意思に含まれることになる。

2021/01/10

「クルアーン、スンナが時空を超えた真理を湛えている」について批判的に考えてみる

奥田は、「クルアーン、スンナが時空を超えた真理を湛えているのに対して、イジュティハードはそうした真理を個々の具体的な状況の中に取り込む人間の側からの働きかけである」とクルアーン、スンナとイジュティハードのイスラーム法の法源における位置関係を説明している(奥田敦『イスラーム法における法発見の必然性と必要性』博士論文、2004年。1頁)

アッラーは、真理によって創造を行なったのであるからそのアッラーから彼の預言者ムハンマドを通じて下されたクルアーンは真理であり、アッラーの御使いでもある預言者ムハンマドの言行もまたアッラーの真理によって裏打ちされているものであるとするならば、たしかに、クルアーンとスンナは時空を超えた真理を湛えているということができる。

ここで気になるのが、「時空を超えた真理」である。時空を超えるとはいったいいかなる事態であろうか。

物質主義者の言を借りれば、科学的に人類が知っているいちばん長い期間としての時間は、人類誕生から現在までということになる。もちろん、生命の誕生、地球の誕生、あるいは宇宙の誕生にまでさかのぼってもよいかもしれないが、仮に宇宙の誕生からの138億年を超える状況を想起できるのか。

同様に空間を超えるといったときに、地球はもちろん、宇宙空間、光速以上の速さで膨張し続けているとされる空間を超えるという状況を想起できるのか。

光速以上で膨張し続けていたとしても、情報の伝達は光速を超えられない(https://tmcosmos.org/cosfaq/faq/faq003.html)ため、空間自体は膨張しているにもかかわらず、情報のレベルでは光速は越えられないという状態においてなお、空間を超えているという状況を想起できるのであろうか。

日常的な言葉づかいに引き付けてこのことを考えてみよう。

時空を超えるとは、時間や空間の壁を越えるという意味合いで使われることが多いようで、時代や場所、あるいは、次元を超えてやってくるとか、行き来するとかの用法になじみがある人も多いようだ。

永遠もまた、時空を超えたところにあると言えるが、時空を超えることの説明と同様、物理的にそれを想起し検証することには、それこそなじまない概念といいうるのではないか。

さらに、「永遠に」は、国家や支配者たちの、常套句として用いられることがあるけれど、宇宙の膨張を超えることまではとても想定されてはいない。

いつでも、いつまでも、どこでも、どこまでもといった言葉に置き換えることも可能で、こちらは恋人たちの常套句であるけれど、むしろ儚さが漂う。

つまり、「時空を超える」という事態は、光の速さの制約をかけられている「見える」ことによる確認、つまり科学的な検証可能性とは別次元の事柄なのである。

つまり、「時空を超える」とは、たとえば、ともにあること、ともにいることが「ずっと」続くと「信じる」、あるいは「願う」、あるいは「祈る」ことによってはじめて生じる事態なのである。

 そうであったとするならば、「時空を超える真理」は、「真理だから時空を超える」のではなく、「時空を超えると信じるから真理になる」ということになり、科学的な意味で時空を超えているのかどうかとは、まさに別の次元の話になる。

奥田が陥っていた間違いは、時空を超えた真理は、時空を超えているのだから真理であり、それが真理である以上、イスラームの信徒のあるなしにかかわらず、普遍的に妥当するはずであるし、普遍的に妥当すべきだと考えていたところであろう。

イスラームの信徒にとっては、そうした配列で整合性が取れるのかもしれないが、アッラーの存在を信じるところからしか、時空を超える真理が成り立たないのだとすれば、信じない人々にとっては、時空を超える真理などあろうはずがないということになる。

となると、「クルアーン、スンナが時空を超えた真理を湛えている」という奥田の言明は、イスラームではそうなのですねという了解にはつながっても、イスラーム以外においても、クルアーン、スンナが真理であるということにはならなくなる。

これを前提とした法体系では、正義も真理も常にそしてすべてイスラームの側にあることにしかならず、イスラーム以外の人々は、信仰を呼びかけられることはあっても、呼びかけることはないし、圧倒的に教えられるだけであり、対立や敵対の火種をかこつことはあっても、フラットな協調的な関係になることはほとんど難しいのではなかろうか。

とはいえ、人間同士である以上、分かり合える何かは有しているはずであるし、信仰のあるなしにかかわらず、そのことを認め合えるような、信者としての人間ではなく、人間としての人間を守る法がむしろ求められてはいないであろうか。

奥田が「クルアーンとスンナが時空を超えた真理を湛えている」と説明している意味での、クルアーンとスンナ、そしてそれらが湛える時空を超えた真理を「超えた」法源の探究が、人間の法の構築に必須なのである。イスラーム法における法発見の必須性はここにあるのではなかろうか。

それは、聖典によれば、アッラーが、慈愛に満ちた万有の主であって、イスラーム教徒のみの主ではないにもかかわらず、イスラーム法は、イスラーム教徒の法でしかなく、彼ら以外に対しては一段下に見たような対応しか行わなわず、あるいは、イスラーム教徒の法ですらないという状況のまま、進化を止めてしまっている問題と言うこともできる。


2021/01/07

聖典クルアーンとスンナは究極的で絶対的な法源なのか:イジュティハード新論⓵

 

イスラームの教えにおいては「アッラー以外に神はなし、ムハンマドはアッラーの御使いである」ことをあらゆる事柄の究極の原則とする。(奥田敦『イスラーム法における法発見の必然性と必要性:イジュティハードからみたシャリーアという法』(2004年、中央大学に提出した博士論文の第1章の第1文)

この文言は、信仰宣明の際に唱えられるフレーズでもあり、イスラームの信仰の柱である。

2つの部分からなる。まず、アッラー以外に神はいないということ。そして、ムハンマドはそのアッラーから遣わされ、教えを伝える預言者であったということ。

自身もイスラームの信者である奥田が、イジュティハード(イスラーム法における法発見の学問的努力)の必然性と必要性を論じるにあたり、この1文から始めたのは、当然と言えば当然である。

奥田は「あらゆる事柄」とはとして「たとえば現世のことも来世のことも、自然現象も超自然現象も、個人的な事柄も社会的な事柄も包括する」と説明する。

イスラーム教徒にとっては、そのような世界の分節化は了解可能のであるとしても、これらの事象は、彼らだけのものではないし、分節の仕方が異なりうるのも容易に想像できるが、「あらゆる事柄」を論じるにしては、かなり乱暴に2項対立を提示している。

信仰のレベルの話だけであるのなら、それはそれで許されるかもしれないが、奥田は、立法もその例外ではないとして「民族、人種、伝統、文化の違いを超越したところに位置する絶対の立法者がアッラーであり、その教えを実践し広く人類全体に伝えるために遣わされたのがアッラーの御使いにして預言者たるムハンマドである」と続けている。

この「民族、人種、伝統、文化の違いを超越したところに位置する絶対の立法者がアッラーである」という言い方を奥田は長く好んで用いてきたが、これもまた舌足らずと言わざるを得ない。言葉の用い方一つから考えてみても、もしもすべてを包括する存在なのだとすれば、包まれるのは超越だけではないはずだ。

超越の反対語、たとえば「内在」もそこには含まれなければならない。ということはつまり、民族、人種、伝統、文化といったものの違いを超越するのではなく、その一つ一つの中に内在する存在でもあるのだ。

民族、人種、伝統、文化といったもので括ってみたところで、同じ指紋を持つ人が二人といないのと同じように一人一人は異なる。「立法」に関する議論なので、規律の統一性といったところに誘導しようとする奥田の意図が透けてみえるが、内在する存在でもあることにも着目できれば、他の人と違っているのは当たり前で、あなたが生きているというだけであなたはその内在者からあなたの存在を無条件で肯定されていることにもつながる。

アッラーは、立法者である前に「慈愛あまねき、慈悲深き御方」である。アッラーの慈悲慈愛のうち人間が知っているのは一種類に過ぎないとは預言者ムハンマドの言葉ではあるけれど、ありとあらゆる多様性を含み持ち、どれ一つとして排除することがないという地平がそこには用意されていることになる。

しかし、イスラーム法の世界には常に排除がついて回ってはいないだろうか。そう、対外的にも対内的にも。不信心者を排除し、背教者を極刑に処するといったルールが想起されるかもしれない。

奥田は、不信心者の排除に関しては、武力によるジハードだけがジハードではなく、むしろ平和裏の信仰の呼びかけにこそジハードの本来があるとして、不信心者の排除は当たらないと主張してきた。しかし、そこに信者と不信心者という2項対立が下敷きになっていること自体が問題であるという種類の指摘を見出すことはできない。

背教者に対する極刑については、たとえば日本国刑法の内乱罪の最高刑が死刑と規定されていることを引き合いに出し、秩序に対する反逆への刑罰という点で理解できないものではないという説明を行なっていた。しかし、個人的に信仰を捨てることと社会秩序の暴力的に破壊することの差の持っている質的な違いについて認識不足を指摘されても仕方のない状態である。

 そうした法的な判断の根底に位置するのが、イスラーム法の法源論である。「アッラー以外に神はない。ムハンマドはアッラーの御使い」という命題は、イスラームの「立法」あるいは「法学」において「神の言葉であるイスラームの聖典クルアーンとムハンマドの言行(スンナ)がイスラームの法、すなわちイスラームのシャリーアにおいて究極にして絶対の法源となる」と読み替えられる。そして「イスラームの法の世界においては、法規なり、法的判断なりがクルアーンとスンナからの証拠に依拠できているかどうかが最大の問題」となっていくと一切の疑いをさしはさむことなく奥田は、イジュティハードの説明に入っていく。

「ムハンマドの時代に法規なり判断なりの与えられなかった新しい事態、すなわちクルアーンとスンナに直接の根拠が見出されない事柄について」は、人間の側から法発見の努力、すなわちイジュティハードが行なわれなければならないという流れである。

しかし、「アッラー以外に神はない。ムハンマドはアッラーの御使いである」の法源論的表現が、「アッラーの言葉であるイスラームの聖典クルアーンとムハンマドの言行(スンナ)を究極的で絶対的な法源とする」こと自体に疑問を呈しておく必要がある。

アッラー以外に神はない、ムハンマドはアッラーの御使いであることは聖典に下されているが、クルアーンとスンナが究極的で絶対的な法源であるとは、シャーフィイー(西暦767-860年)の整理によるものに過ぎない。

神が行なったことと人間が行なったこととの間に明確な線を引くイスラーム的な考え方にしたがった場合でも、シャーフィイーのこの整理は、見直される余地がある。つまり、アッラーからのメッセージをムハンマドを通じて下され、聖典クルアーンとしてまとめられたテキストのみに限定したのは、人間が行なったことにすぎないからである。

クルアーンに書かれているからという理由で、それが下された文脈も無視して、あるい一節や、ある言葉がルールの正当化が行なわれるようなことがあったとするならば、それではアッラーを立法者としたことにはならない。

聖書のテキストも人間が創り出したものであり、それが、聖典として長い時間をかけて連綿と唱え続けられてきたため、真理であると信じられるようになったに過ぎないといった、物質主義的な考え方にしたがったならば、たとえばクルアーンを究極的で絶対的な法源などと規定してしまえば、日々刻々と更新されるアッラーの創造の徴には目を瞑って、すでに下されている徴だけに依拠せよということにもなってしまう。

イスラームの教えによれば、預言者はムハンマドで最後である。しかし、アッラーの創造自体は止まることも終わることもない。アッラーからのメッセージを携えて人々に伝える預言者はもう現れないことについて、奥田は、これからは人間がクルアーンとスンナをベースにイジュティハードで法を発見していけということだと論じた。

しかし、クルアーンの節が徴(アーヤ)であって、法源になるのならば、アッラーの存在の徴もまたアーヤとされるのであるから、法源になりうるものである。下されたアーヤにたいして観られるアーヤとされるものである。

人間がやるべきは、クルアーンとスンナの解釈だけではない。法源として扱えるアーヤをアッラーの日々の創造の中にたゆまず探究し続けることも、創造主を立法者とする法体系において人間が人間だからこそできる寄与ということになる。

アッラーは万有の主である。万有とはこの世のすべての存在、あるいはすべての人々である。万有の主の法の法源が、人々に思考停止を命じ、主の創造に対して目を瞑るようなものであったのでは、とても、万有はそれを共有できないし、共有しようともしないであろう。

奥田のイジュティハード論は、法の目的論や福利の実現などの議論によって幅を持たせたとしても、つまるところクルアーンとスンナを絶対視したうえでの法解釈論の展開に過ぎない。この議論では、この世に生を享けた凡てのものの多様性を包摂し、共生を実現する法の構想には、まったく用が足りない。

奥田が展開したイジュティハード論およびイスラーム法論の批判的検討を通じて、すべての人々が受け入れることのできる法の在り方を引き続き探究していきたい。

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