ラベル アラビア語論・言語論 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル アラビア語論・言語論 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2021/08/18

「タリバーン」の件。朝日新聞から回答:18日から「タリバン」に変更

 朝日新聞東京本社お客様オフィスより回答があった。

「他の多くの主要メディアが「タリバン」を使っている現状を考慮し、17日に「タリバン」の表記に変更することに決め」、「本日18日付の紙面から反映されています」とのこと。

 

 本日朝刊1面に「おことわり」も掲載されていた。

 

 理由については、「これまで外務省の表記に合わせて「タリバーン」を用いて」きたとのこと。

外務省がなぜその名称を用いているのかは不明だが、確かにそのように使われている。理由が気になるが、伝えられている現地の状況を考えれば、それを問い合わせるのは今ではない。


 

 

タリバンの国家運営が、

1.人権:人間がただ人間であるという理由だけで尊重され、実際に守られる人権

2.多様性:部族・種族の相互理解と協力

3.個の変化:一人ひとりの変化から国全体を変えていくこと

4.自分自身に対するジハード:テロリズムからの決別

(いずれも、聖典クルアーンに根拠を求めることができる)

に基づくものになることを願う。


「タリバーン」という朝日新聞の呼称に違和感:質問を送ってみた。

 

「タリバーン」という呼称について

 

  イスラーム法とクルアーン、アラビヤ語の研究者です。

 アフガニスタンの政権崩壊の報道で御社は、「タリバーン」の呼称を用いていますが、「タリバン」でも「ターリバーン」でもなく「タリバーン」とされている理由を教えて下さい。

  ちなみに、アラビヤ語では、「ターリバーン」とするのが言語にいちばん近いですし、アラビヤ文字を用いるパシュトー語の表記を見ても「ターリバーン」と読めます。

ご教示のほどよろしくお願いいたします。

  なお、余談ですが、イスラーム法的に言えば、ターリバーンの極端な形で土着化したイスラーム法解釈にイジュティハードにより対案を示せれば、イスラームの民主的な側面を引き出し、権威主義と民主主義ををハイパーに統合するイスラーム的な政体の樹立が可能なはずです。

 

 アメリカの成功体験である戦後の天皇制から日本的民主主義への誘導は、神の性質がまったく異なるため、イラク同様、ここでも不可能です。

 

 また、政教分離と政教の緊張関係が前提になっているキリスト教的な秩序観にはイスラーム法を的確に位置付けることができず、したがって、神は人権を与えるだけでなく、守ることまで行うという発想が出てこないため、どうしても軍事力の継続的行使に頼ることになるのだと思います。

 

 曲がりなりにも、法で動いている人々です。たとえば、ジハードの現代的な意味一つ学んでもらうだけでも、もっと平和的に事態を収拾できるのがイスラーム法であるはずと、研究者の立場からは考えます。

 

 カールシュミットが言うように政治に固有なる区分が「敵、味方」であるなら、そのこと自体を問い直さない限り、この問題は解決しないように思います。

 

 「自分たちの意に沿わない人に対し、惨い仕打ち」(「天声人語」2021年8月17日)を行なってきたのは、つい昨日までの自分たちの姿ではなかいでしょうか。

 

 国際社会に期待しても何も出てこないのが残念ながら現状であり、新たな敵・味方の分断ができるだけ。国際社会に対して「敵・味方」ではなく、まずは自分自身が変わることによって国を変え、互いに協力し合い、豊かな多様性の世界を築いていくことには、多くの賛同が得られるのではないでしょうか。ただ、それを教えているのが、聖典クルアーンであることを、多くのイスラーム教徒が知らないというのも現状です。

  軍事力によってしか守られない民主主義と、軍事力によってしか守られない専制主義という二律背反を超える考え方をターリバーンにも理解してもらえる形で探究したい(と考えています)。

 

( )は、字数制限の関係で割愛

 

回答が届いたら、お知らせいたします。

 

2021/05/01

ラマダーンの「サウム」を「斎戒」と訳すことについて

ミツバツツジの花言葉:節制・抑制のきいた生活
少ない水の環境に耐え見事な花を咲かせることに由来するという


ラマダーンは断食か?

 今年のラマダーンも後半に入った。昨年に引き続きコロナ禍で信徒同士のイフタール(日没後の断食明けの食事)もままならない日本でのラマダーンである。

ラマダーンとは、何かと問えば、断食のことだと答えが返ってきそうだが、正確を期していえば、ラマダーンとは、イスラーム暦第9月の名称であり、断食は、その第9月の間に信徒たちが義務として行う行為の一つである。

「断食」という言い方は、分かりやすいので、ラマダーンとは「断食月」であるという言い方もなされるが、断つものは食だけではない。口から入れるものは控えるので、水も飲まない。喫煙もしない。

怒らないし、争わないし、欲しがらない。男女の交わりもなしだ。

そうしたことすべてを表すのに、「断食」では、どうにも用が足りない。代表的な行為ではあるけれど、断食に限定されるものではない。


「斎戒」とは

そこで、しばしば「斎戒」の語が用いられる。筆者も長く、「ラマダーン月の斎戒」(最もシンプルにアラビヤ語でいえば、「サウム・ラマダーン」)を定型的な表現そして来た。

ところが「斎戒」という言葉が、日常生活になじみがない。しかも、その意味が、「祭祀(サイシ)などを行う者が心身を清浄にすること。」などであるため、祭祀でもないのに、「斎戒」となってはいよいよ何だか解らない。

(「斎」は心の不浄を浄める意、「戒」は身の過ちを戒める意)飲食・動作を慎んで、心身を清めること。」(『広辞苑』)との説明の「飲食・動作の慎み」は、「サウム」の語にだいぶ重なっているかもしれない。

しかし、「斎戒」に「断食」ほどの分かりやすさはない。ただでさえ訳の分からないものと敬遠されがちなイスラームである。そこへもってきての「斎戒」。それならば、いっそ断食としてしまった方がよいのかという気にもなる。

ところが、「断食」とだけしてしまうと、断食だけすればよいという誤解を生むことにもなりかねない。そして、水も飲まないのですねと変に感心されたりもする。ムスリムの親たちの中には、食べなかったことのご褒美としてお小遣いを与える者たちもいる。

「斎戒」でも「断食」でも用が足りない。こういう時には、クルアーンが下されたアラビヤ語で「サウム」という言葉が、いったいどういう意味なのかから考え直してみると見えてくるものがある。


「サウム」とは

「サウム」には、一般的な意味もある。「節制、控えること、慎むこと」などである。その動詞形である「サーマ」が、アンという前置詞を従えると、「~を控える、慎む」という意味になる。

控えて、慎む。食べることも飲むことも、怒ることも、争うことも、欲しがることも。

そこにあるのは、徹底的な節制である。そうであるならば、ラマダーン月は、節制の月ということもできるのではないか。

しかも、決意をもって、これを行う。意志して何かをやり遂げることが人間に固有の行為であるとするならば、まさに、人間であることの証明にもなる。

誰かの役に立つとか、社会のためになるとかという形では、人間であることあるいは生きていることを実感するのは、難しいかもしれない。

ラマダーンの節制生活は、引き算だ。食べない。飲まない。怒らない。争わない。欲しがらない。。誰かのためとか社会のためとかに対して行う善行の足し算より先に、とにかく引き算。その引き算で生じた1か月間の「差」が、最終的には全体の「和」につながるという考え方だ。

今風に言えば、ラマダーンのサウムによって、一食分は抜くことになるので、食品ロスを減らすことによるSDGsの実現にもつながりうる。


日没とともに断食は解かれる

ラマダーン月の節制は、日々更新される。この点が実はポイントである。

日没を迎えると、断食をはじめとする節制生活は解かれる。その時の食事が断食状態を破るという意味のイフタール。一滴の水、一粒のナツメヤシが、身体にしみわたり、生きていることを実感できる瞬間だ。神に感謝。そして今日もがんばれた。今日もがんばったと、自分を確認する。

そのイフタールだが、家族のみならず、信者どうし、ときには、信仰を超えた友人たちも交えて、行うことが多い。イフタールを共にして、神への感謝と生きている実感と喜びを共有する。忍耐を共にした者同士だからなおさら、絆が一気に深まる。

それだけにコロナ禍が、サウムの効果に与える影響は、深刻だ。それは、マグリブ後にも節制を要請する。とはいえ、この節制生活は、信者であるなし、特定の信仰のあるなしにかかわらず、世界中が要請されている。


「個」であることを見つめなおす

言葉をばらばらにすることによって、言語が異なる者同士のコミュニケーションを難しくしたのがバベルの塔の話だとするならば、コロナの話は、人々に、たとえ同じ言葉をしゃべっていたとしても、あるいは、異なる言語を理解していたとしても、まずは一人ひとりがその指紋が異なるように互いに異なる個であることを、教えてくれてはいないか。

そうであればこそ、既存の「われわれ」という括りを超えて、労わり合い助け合えるというものではなかろうか。

モーゼの共同体とか、イエスの共同体とか、ムハンマドの共同体とか、あるいは、国家とか民族とかイデオロギーとか、階級・階層とか、あるいは、性差といったことまで含め、そういったものの檻に幾重にも閉じ込められていた「小さなわれわれ」。

コロナ禍のイフタールは、そういったことについて考えるチャンスにもなっているように思える。

残り半月を切りました。この月にこの地上で節制生活を送っているすべての人々の神のご加護と祝福と平安がありますように。




2021/04/05

呪いの言葉が聖典にあっても大丈夫な理由:『聖典クルアーン』「中傷者章」をめぐって


「ワイルン」『聖典クルアーン』「中傷者章」の始まりの言葉である。

「中傷者章」のこの第一文は、不定名詞から始まる文章であり、それは、文法的な区分に従えば、「ドゥアー」(祈り・願望)を表す形でしかないことは、認めざるを得ない。

 

しかしながら、「呪われてしまえ」とは、何とも穏やかでない。そのことは、あくまでも個人的な思いではあるけれど、日本語の訳を見ても、あるいは、アラビヤ語の字面を見ても変わらない。

しかも、それを幼少の時分から、暗記する。とりわけ、アラブ圏以外のムスリムの子供たちは意味を知ることもなく、この人を呪う言葉を暗記する。個人的な感想ではあるが、何とも心が痛む。


しかしながら、少なくとも信者たちにとってクルアーンは正真正銘の神の言葉なのであるから、神の言葉を覚えることが悪であろうはずがない。この矛盾をどう解決するのか。



「呪われてしまえ」を、自分に対して向けられた戒めの言葉として読むのである。人々に対して誹謗・中傷を行えば、アッラーからの呪いが降りかかると。



願望文の発話者は、この場合、アッラーである。アッラーの願望が怖いのは、「有れと言えばすなわち有る」御方の願望だからである。願望と存在の間に隙間がない。すなわち、アッラーが中傷者を「呪う」と言ったら、呪いがかけられるのである。



それは、身の毛もよだつ恐ろしさだ。



「ワイルン」も恐ろしいが、その名宛人の中傷者も半端ではない。フマザティン・ルマザティン、日本語の中傷者ではとても用が足りない。誹謗中傷をし続けている、誰が何といおうと口を開けばお構えなしの誹謗中傷だ。しかも、金勘定ばかりしていて、自分の財産が自分をこの世に永遠に生かしてくると思っているというのだから、これも手が付けられない。そんな人は地獄に落とされるということである。



これだけ徹底した人はまれなのかもしれないが、逆に、他人を誹謗・中傷すること、お金を夢中になって集めて数えてしまうこと、金さえあれば何とでもなるとついつい、気が大きくなることであれば、身に覚えのない人は少ないかもしれない。



そのときに、アッラーの呪いと、心の中にまで入って自分を焼き続ける地獄の火を自分の意識の中に焼き付けておく。そのことによって、これらの聖句は、自分自身に対する強烈な戒めになりうるのだ。



「不定そのもの」がまさに不定に漂う中に縛られているような世界で呪いの言葉などかけられたのではたまらない。それに対してこちらは、確固とした存在(たとえそれがとらえられないような茫漠としたものであったとしても)に、テクストという形で「不定的なるもの」を極力許さない形で管理された世界での「ワイルン」なのである。



 つまり、究極にして唯一の主、慈悲深く慈愛あまねくアッラーからの注意喚起。まさにこれに優る注意喚起はない。



この啓示は、アッラーから、そうはなってくれるなよという意味での「ドゥアー」なのかもしれない。



そう解すれば、ラフマーン・ラヒームとしてのアッラーのあり方と合致するし、

「私は、呪いの言葉を浴びせてくる者に対して、呪いの言葉ではなく、ラフマをかける」と言ったと伝えられるムハンマドの言葉がいっそう沁みてくるというものだ。



アッラーのドゥアーに、ムハンマドを範として応えられるのか。

そこには、信仰を異にする者をも包み込むような大きな愛があるはずだ。

「愛はすべてのとがをおおう」(『旧約聖書』箴言10:12)

アッラーフ・アアラム

 

奥田敦

2021年3月25日

あえて語らぬ/あえて語りぬ

 

1 沈黙

コロナ禍にもかかわらず、現地に滞在しながら日本語教育を続ける友人から、夏目漱石『夢十夜』の第7夜のアラビヤ語訳を送っていただいた。なんでも、この作品に関心を持った受講生たちとともに作成したという思いのつまった翻訳だ。

この第7夜は、西洋に向かう客船から、投身自殺を図る「自分」が入水前の船上の状況から入水の最後の瞬間の心情までが描写されていて、いろいろなことを考えさせてくれる小品である。中でも個人的には、甲板の上に出てひとり星を眺めている「自分」のところにやってきて「天文学を知っているか」と尋ねた異人とのやり取りが気になる。

 

「自分」は、「つまらないから死のうとさえ思っている。天文学など知る必要がない。黙っていた」のであるが、異人は、金牛宮の頂にある七星(北斗七星)の話をし、「そうして星も海もみんな神の作ったものだと云った」のであり、最後に自分に神を信仰するかと尋ねた。」「自分」は、空を見て黙っていた」という。

 

清朝からの引き上げ宣教師が多数乗船していた時代である。しつこい宣教師に絡まれたのだし、宗教など信じるに値しないものでもあるのだから、無視するような態度は当然であるという解釈[1]もあれば、耳を傾けていれば、無限の後悔と恐怖を抱いて黒い波の方へ静かに落ちていかずに済んだのではないかいう指摘[2]もある。

 

確かなことは、「つまらないから死のうとさえ思っている」ことに、注意を払おうとしない異人の姿勢であり、その言葉が自死を思いとどまらせるような働きとは無縁であったということである。

ここで、アラビヤ語の訳を見てみよう。「神」の訳である。「神の作ったもの」の部分も、「神を信仰」の部分も、神は「アッラー」と訳されている。ここに登場する異人は、おそらく、イスラーム教徒ではない。もしもイスラーム教徒であったのならば、「アッラーを信じるか」という問いになっていたかもしれない。

しかし、「海も星もすべて神が作った」「神を信じるのか」というときの「神」とはいったい何なのか、もとより会話として成立していないのではないかと思う。

 

神を信じるかと聞いてくるものがいるかと思えば、若い女の引くピアノに合わせて二人きりの世界で唱歌を唄う背の高い立派な男の変に大きな口(こういう時の口は確かにえげつなく大きく見える)。世の中に何かを見つけようとしている「自分」がますますつまらなくなるには十分な状況である。しかし、それが、いやそれも含めたもろもろが「とうとう死ぬことに決心」するに十分だったとは思わない。そのことは、本人がいちばん知っていることとだ。甲板から自分の足が離れて船と縁が切れたその刹那に、急に命が惜しくなっているからだ。

 

そこで初めて悟る。「何処へ行くんだか判らない船でも、やっぱり乗っている方がよかった」と。「しかもその悟りを利用することが出来ずに、無限の後悔と恐怖を抱いて黒い波の方へ静かに落ちて行った」のである。

 

2 何かを遂げないと死ねない!?

 

7夜の夢はここで終わる。つまらないことぐらいで、行く先のわからない船に乗っていることぐらいで死ぬと後悔すると教えてくれているのであろうか。つまらないこと、目的のわからないことばかりの現実の中、断とうとすればそれはそれでまた無限の後悔と恐怖に苛まれる。夢の中の話なので、目覚めれば、現実を生きることになる。なんとも後味の悪い夢である。

無限の後悔と恐怖とは、具体的に何を指しているのであろうか。キリスト教徒やイスラーム教徒であれば、神の意志に背いて自らの命を絶ってしまったことに対する後悔と、彼を待ち受ける地獄に対する恐怖ということになろうが、漱石は、「無限の後悔と恐怖」とだけ云う。

 

その自分が静かに落ちて行ったのが「黒い波の方」だが、地獄より奈落と重ね合わせることのできる表現であろうか。こうした状態で船から飛び降りれば、死ぬことは間違いなく、「自分」は少なくとも夢の中で死んだと解するのが妥当であるかに思えるのだが、少なくとも漱石は「死んだ」とは一言も云っていない。もとより、夢の話である。

 

ところで、日本語の「死ぬ」という言葉は、元来、「生命が無くなる、息が絶える」という意味の言葉ではない。井筒俊彦が金田一京助の研究[3]から紹介するところによれば、古代の日本語では、「命が無くなる/息が絶える」という事態に対してそのことを直接指す言葉を伏せて、「し--る」(つまり、完全に何かをやり終える)という言葉を使って表していたと言う[4]

生命が無くなる、命が絶えるという忌むべき状況に対しては言葉を伏せるのが、古代の日本語の世界である。

 

「死」に限らず忌々しきことはあえて言語化しない。言語化すれば、それがやがて必ず降りかかってくるからだ。井筒は『言語と呪術』の中で『万葉集』から引用する[5]

 

「朝霧の乱るる心言に出でて言わば忌々しみ」

 

悲しいとき、ひとはその悲しみを心に忍ばねばならない。さもなくば、何か恐ろしいことが必ず起きる。

 

3 天つ神も占い頼み

言語化しなかった例として思い出されるのが、「神」である。和辻哲郎の「天つ神」という言葉についての指摘である。「イザナギ・イザナミの2神が、最初の国土創造に失敗したとき、天つ神の所へ帰ってそれを報告し、再び天つ神の命を請うた」[6]。そのときの天つ神たちによる命令の仕方が驚きだと和辻は言う。「「布斗麻邇爾卜相而」指令を与えたのだ。つまり、占卜によってやり方を見直せという指令である。

 

和辻は言う。「占卜によって知られるのは不定の神の意志であるが、天つ神にとっての不定の神とは何であるか。天つ神の背後にはもう神々はない。しかもこれらの神々がなお占卜を用いるとすれば、この神々の背後になお何かがなくてはならぬ。それは神ではなくしていわば不定そのものである。」古の意ばえは究極者を何々の神として固定することはしない。

 

「すなわち最後の天つ神たちさえも不定者の現われる通路であって究極者ではない。究極者を神として把捉しようとする意図はここにはないのである。」(『古事記伝』4,225頁)

 

さらに和辻は宣長を引用する。「今此天津の卜へ賜ふは、何神の御教を受賜ふぞと、疑ふ人も有なめど、其は漢籍意(からぶみごころ)にて、古(いにしへ)の意(こころ)ばへに違へり」ちがへりそうう語句へ給ふは」

 

天つ神のその先に広がる「不定そのもの」の世界。そしてその「不定そのもの」には名前を付けない。決して「〇〇神」などと呼ばない。そもそも「神」でさえないのだから。そのままにしてある、そして、不定そのものであるため、そこには、言葉でとらえられるものは何もない。しかし、古の神々でさえ占いで尋ねようとする何かが確かに存在するのである。

 

一神教の完成形態たるイスラームとの対比で言えば、この「不定そのもの」にあえて定冠詞付きで「神」の名を与えたのがイスラームということになる。これに対してあくまでも「不定そのもの」であり「無名」のままに留めおいた日本神話の世界。そしてそのことは現在に至るまで引き継がれている。日本の宗教は、多神教と信じられているが、しかし、「不定そのもの」の一神教という見方も可能なのである。

 

 

4 死ぬから空しい、死んでも空しい

「神を信じるか」と一神教の信者が問うときには、「不定そのもの」としての「神」への信仰の有無を問うているのだが、「神」を信じるかと日本語の世界で問われたときには、「不定そのもの」の手前に位置する神、あるいは、不定そのものからは切り離された形で存在するキリスト教の神やイスラームの神が想起されてしまう。

 

「不定そのもの」は、「不定そのもの」なのであるから、完全に伏せられており、「神」という言葉から、「不定そのもの」は想起できないのである。「神を信じるか」という問いは、残念ながら、「不定そのもの」にまでは届かない。

 

神が作ったと言われると、神でさえ占卜によってつくったことを知っている者からすれば、なんとも胡散臭い話だ。

 

7夜の「自分」と異人のかみ合わない会話。実は何も伝わっていない。したがって、そこに「つまらなさ」を埋めてくれるような何かがあるはずもない。繰り返しになるが、「神」という言葉のせいで「不定そのもの」はどこかに失せてしまっている。異人はと言えば、星も海も自らが支配したかのような意気軒高。そして蘊蓄の嵐。そもそも行先はわからないし、何のために乗っているのかもわからない船。黙るしかない。何かをやり遂げようなどという気分ではない。

 

神も伏せるし、死も伏せる。夢だから覚めるけれど、果たして夢でなくても、日本語の世界で人は死ねるのであろうか。何かを完全にやり切らなければ死ぬことはできないと呪われているような、日本語の「死」。あの世がなくても、日本語の世界では、死後も死ねないのだ。

 

死んでしまえば、すべては無に帰し、忘れ去られてしまうのだから空しいとコヘレトは言った(『旧約』「伝道の書」)が、『夢十夜』の「自分」の空しさは、死んでみても同じではないかと思えるような空しさ、あるいは、たとえ死んでも死に切ることさえできないと思えるような空しさ。そんな空しさを黒い波を目前にした「自分」に感じることはできないであろうか。

 

それは、飛び込んだことに対する後悔というより、何もやり遂げることがなかったことに対する後悔か。人の世が「とかく住みにくい」のは、幾重にも呪詛に縛られているからか。この世もあの世も混然一体とした無境界の世界。

 

「自分」が抱いたのは、生きているのか死んでいるのかわからない状態に対する捉えどころのない恐怖と、飛び込んだところで死に切れていない自分では何も変わらないのにという後悔だったのかもしれない。

 

奥田 敦

2021320



[1] https://ameblo.jp/kimi-nakamura-ken1102/entry-11215250719.html

[2] https://blog.goo.ne.jp/kamisanbi/e/80a6369a24f5e7f9aa470f9fbd8967d0

[3] 金田一京助「規範文法から歴史文法へ」『日本語の変遷』講談社学術文庫901976年。104頁以下。「例えば、『死』は人の恐れ忌むことなので『逝く』『みまかる』『無くなる』のような語を生じたが、『死ぬ』という形そのものさえも、実は換喩で本当にもとの語は何であったかわからない。(中略)その『死ぬ』の『死』は、実は『為」(し)であって、「死ぬ」の「ぬ」は『逝ぬ』(いぬ)である。すなわち『死ぬ』は『為逝ぬ』(しいぬ)というだけで、その意味は、直接に『死去』ということを言うのを略して、『してしまいました』で、『死去してしまいました』を聞かせたのが起こりであるらしい。」

[4] 井筒俊彦『言語と呪術』安藤礼二監訳、小野純一訳、慶應義塾大学出版会、20189月。41頁以下。

[5] 井筒俊彦『言語と呪術』安藤礼二監訳、小野純一訳、慶應義塾大学出版会、20189月。44頁以下。

[6] 『和辻哲郎全集』第1262頁。以下、和辻からの引用は同箇所。

注目の投稿

里親という希望の光

■ ストレスに傷つけられていませんか?  周囲から些細なストレスに対して、次のような反応に出会ったり、感じたりしたことはないだろうか。 「ストレスを自分に対する攻撃と受け止め、すぐさま反撃行動に出てしまう」 「暴力的な行動で他人に対して怒りを爆発させる」 「自分自身を傷つける行動...

人気の投稿