2021/04/05

呪いの言葉が聖典にあっても大丈夫な理由:『聖典クルアーン』「中傷者章」をめぐって


「ワイルン」『聖典クルアーン』「中傷者章」の始まりの言葉である。

「中傷者章」のこの第一文は、不定名詞から始まる文章であり、それは、文法的な区分に従えば、「ドゥアー」(祈り・願望)を表す形でしかないことは、認めざるを得ない。

 

しかしながら、「呪われてしまえ」とは、何とも穏やかでない。そのことは、あくまでも個人的な思いではあるけれど、日本語の訳を見ても、あるいは、アラビヤ語の字面を見ても変わらない。

しかも、それを幼少の時分から、暗記する。とりわけ、アラブ圏以外のムスリムの子供たちは意味を知ることもなく、この人を呪う言葉を暗記する。個人的な感想ではあるが、何とも心が痛む。


しかしながら、少なくとも信者たちにとってクルアーンは正真正銘の神の言葉なのであるから、神の言葉を覚えることが悪であろうはずがない。この矛盾をどう解決するのか。



「呪われてしまえ」を、自分に対して向けられた戒めの言葉として読むのである。人々に対して誹謗・中傷を行えば、アッラーからの呪いが降りかかると。



願望文の発話者は、この場合、アッラーである。アッラーの願望が怖いのは、「有れと言えばすなわち有る」御方の願望だからである。願望と存在の間に隙間がない。すなわち、アッラーが中傷者を「呪う」と言ったら、呪いがかけられるのである。



それは、身の毛もよだつ恐ろしさだ。



「ワイルン」も恐ろしいが、その名宛人の中傷者も半端ではない。フマザティン・ルマザティン、日本語の中傷者ではとても用が足りない。誹謗中傷をし続けている、誰が何といおうと口を開けばお構えなしの誹謗中傷だ。しかも、金勘定ばかりしていて、自分の財産が自分をこの世に永遠に生かしてくると思っているというのだから、これも手が付けられない。そんな人は地獄に落とされるということである。



これだけ徹底した人はまれなのかもしれないが、逆に、他人を誹謗・中傷すること、お金を夢中になって集めて数えてしまうこと、金さえあれば何とでもなるとついつい、気が大きくなることであれば、身に覚えのない人は少ないかもしれない。



そのときに、アッラーの呪いと、心の中にまで入って自分を焼き続ける地獄の火を自分の意識の中に焼き付けておく。そのことによって、これらの聖句は、自分自身に対する強烈な戒めになりうるのだ。



「不定そのもの」がまさに不定に漂う中に縛られているような世界で呪いの言葉などかけられたのではたまらない。それに対してこちらは、確固とした存在(たとえそれがとらえられないような茫漠としたものであったとしても)に、テクストという形で「不定的なるもの」を極力許さない形で管理された世界での「ワイルン」なのである。



 つまり、究極にして唯一の主、慈悲深く慈愛あまねくアッラーからの注意喚起。まさにこれに優る注意喚起はない。



この啓示は、アッラーから、そうはなってくれるなよという意味での「ドゥアー」なのかもしれない。



そう解すれば、ラフマーン・ラヒームとしてのアッラーのあり方と合致するし、

「私は、呪いの言葉を浴びせてくる者に対して、呪いの言葉ではなく、ラフマをかける」と言ったと伝えられるムハンマドの言葉がいっそう沁みてくるというものだ。



アッラーのドゥアーに、ムハンマドを範として応えられるのか。

そこには、信仰を異にする者をも包み込むような大きな愛があるはずだ。

「愛はすべてのとがをおおう」(『旧約聖書』箴言10:12)

アッラーフ・アアラム

 

奥田敦

2021年3月25日

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