2021/04/05

自由意思という檻

1.「行為は意志による」というハディースがある



これまで、このハディース(アッラーの御使いムハンマドの言行を伝える伝承)を行為規範の根拠として、つまり、「行為とは意志によって行われるものであり、意志によって行われた行為は、その人のものとして、ルールがある場合には法的な責任を負わされる」と読んできた。

ハディースは、イスラーム法において聖典クルアーンと並んで不易不動の法源をなすが故に、行為は意思によるという考えはイスラーム法の基本原則の一つと見ることができる。そして、もちろん、この意志主義とでも呼ぶべき(法律用語としては「意思」主義)は、近現代の社会規範の柱をも形成している。社会関係の動因をなす行為は原則として「意思」によって行われるものであると。

意志は決意や決心と結びつくような強い思い、意思は、心に決めたというほどの深さとは必ずしも関係のない考えや思い。法的に言えば、意志は意思に含まれることになる。[1]

自由意思に従って、職業を選択し、働き、契約を行ない、物を所有し、職業を選択し、住む場所を決め、旅行もすれば、買い物もする。人と付き合い、恋愛をし、将来を誓い合って、結婚をしたかと思えば、離婚もする。

そうしたもろもろの「意思」「意志」「決心」「決意」は、しかし、残念ながら、大概はうまくいかない。よいと思って就職した先が倒産する。首切りにあう。最高のコスパを見込んで買った商品がすぐに故障する。無料の文字に踊らされて結んだ契約が無料期間を過ぎたら割高な料金の設定になっていた。寝に帰る場所としてパワーマンションを購入したとたんにコロナ禍の在宅テレワークで手狭で息苦しくて仕方ない。上がると思って買った株がすっかり暴落、手放した途端に金余りの資金流入で高騰。。

そのときにはそれなりに考えて決めたとしても、結局、思慮が足りなかったと後悔する。

夏目漱石『夢十夜』第7夜の「自分」もそうだ。あまりのつまらなさ、解消を見通せないつまらなさから入水を図るものの、(「不定そのもの」による一人も殺さないセーフティーネットの存在はこの際さておくとして)もう取り返しがつかない。

「やっぱり乗っている方がよかったと始めて悟りながら、しかもその悟りを利用することができずに」という状況である。

やらかしてからでないと「悟り」を待つことのできない「決心」。困ったものだが、これが「自分」の現実。つまり、決心であろうが決意であろうが、人間の意思は当てにならないのである。

人間はこんな「決心」もできてしまう自由意思の虜なのだ。





2.悟りを得れば、自由意思の言いなりになどならないのではないか。



「自分の心に頼む者は愚かである」(箴言28:26)と旧約聖書は言う。

「思慮ない者よ、悟りを得よ、愚かな者よ、知恵を得よ」(箴言8:5) とも。



宗教を否定する「近代」にあって、これらの言葉はまともに取り合ってもらえない。それこそ空しい状況である。「知恵」を「悟り」をと呼び掛けても、心に頼む人々、そして、それによって儲ける人々、儲ける人々にとって人々の悟りは禁物だ。悟られたらおしまい。愚かなままに留めおくために必要なコト。心を動かし続けるもの。頼れるのは、エンターテインメント。喜怒哀楽の追体験として、ときに陳腐でさえある氾濫する物語。
近代という時代は、愚か者を量産する。


楽しいことならまだよいかもしれないが、心がくたくたに疲弊することも生じうる。1886年にフロイトが一般開業医としてヒステリーの治療を始めた。精神分析学の曙光である。心に病があり、それは治療できるものと位置づけられるようになる。心の病。人々のストレスが臨界点を超えたということであろうか。当然の帰結と言えば当然か。

そんな病理を構造的に生み出すような時代に、自己責任論、何でもかんでも自分の意思のせいにする考え方はそぐわない。たしかに、自由権を得るために多くの血が流された。ようやく勝ち取った自由権かもしれない。しかし、自由になってみると、こんどはその自由に翻弄される。自分の意思があまりに頼りない。自分を裏切る自分、自分にがっかりさせられることもしばしばだ。



3.この意思の檻から解放されるために:悟りと知恵



すべての行為は意志によるという言明を「あの行為は意志によるものだった」と単なる叙述として読んでみるというのはどうであろうか。

たしかに「意思」によって行為はなされる。誰であっても、思うところというのはある。思うところは人それぞれである。アッラーの道のためにとマディーナに移住した者もいれば、結婚をしようと移住した者もいる。

「意思」によらなければならないとか、「意思」によって行われるが故に意思の持ち主がその行為の責任を負わなければならないといった規範的な意味をシャリーアの体系は読み取ろうとするが、立法者たるアッラーと、来世の存在が明確な体系(それらはしばしば恣意的に用いられてしまうのだが)。それに対して、近代の意思主義では、すべてを拾い、最後まで寄り添うような立法者の存在も、遂げられなかった思いが実現される最後の日のようなものも想定されてはいない。


思わぬことを思ってみる、思うこと自体を止める時間を作ってみる。行為は意思によるのかもしれないが、人間は24時間意思するものにあらず。自分が思っていることがすべてではない。主の知を知る努力を怠らないこと。主と向き合う時間を作ること。不定そのものから適切に私たちの在り方を引き出すためにも、究極的な存在が存在することを想定し、人間の意思では到底及びもつかない、必然と存在が一体となっている世界、つまり運命によって動かされる世界を前提としてみれば、意思主義の檻の鍵は外れてくれるかもしれない。 

奥田 敦

2021年3月25日




[1] 意志は決意や決心と結びつくような強い思い、意思は、心に決めたというほどの深さとは必ずしも関係のない考えや思い。法的に言えば、意志は意思に含まれることになる。

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