2021/01/28

愚者の口(ことば)の特徴

 ■ 愚者の口

 「愚者の口」について「伝道の書」に次のようにある。

知者の口の言葉は恵みがある。

しかし愚者のくちびるはその身を滅ぼす。

愚者の口の言葉の初めは愚痴である。

またその言葉の終わりは悪い狂気である。

愚者は言葉を多くする。(後略)

(伝道 10:12-14)日本聖書協会訳

 

 12 知恵のある者が口にすることばは恵みが深く、愚かな者の唇は自分自身を呑み込む。

13  彼が口にすることばの始まりは、愚かなこと、彼の口の終わりは、悪しき狂気。

14  愚か者はよくしゃべる。(後略)

(伝道 10:12-14)
新日本聖書刊行会 翻訳. 旧約聖書 新改訳2017 (新改訳聖書センター) (Kindle の位置No.79108-79117). INOCHINOKOTOBASHA. Kindle 版.


 

■ 話や話の組み立てを意識する

 愚者のする話は、愚痴から始まり狂気に終わる。あるいは、話終わったのちに災いの狂気に至る。いずれにしても、狂気と無縁ではいられない。しかも、 愚者は、多くの言葉を話すという。

 なにかが思い当たるなら、それは創造主からの叱責と受け止めよう。せめて、愚から始まる文章、話を慎む。つまり、愚痴や、不平や不満から話を起こさない。そして、狂人の戯言のような結びで終わらなぬよう意識しよう。

 

 ■ 口を閉じて胸に手を当てる

 口を開けば、愚痴をこぼし陰口をたたく。そして同時に、愚痴や陰口がごちそう、あるいは、主食でもある。さらに、口を開けば、罠にかかって破滅に導かれる。

愚かな者の口は愚かを吐き出す(「箴言」15:2)

愚かな者の口は愚かさを食物とする(「箴言」15:14)

愚かな者の口は自分の滅びとなり、そのくちびるは自分を捕える罠となる。(「箴言」18:7)

  愚か者は、知識を求めようという心を持たずに、欺くことばかりなどと言われているのだから、ひとまず口を閉じて、胸に手を当てて知識を求める心を呼び覚まそう(自戒を込めて)。

さとき者の心は知識を訪ね、愚かな者の口は愚かさを食物とする。
(「箴言」15:14)

  創造主はすべてを御存知。

2021/01/26

正論は疎ましがられる:「この地上に正しい人はひとりもいない」(旧約聖書 伝道の書 7:20)

■ 「間違えない人はいない!?」  

 たまたま外出中に目にしたE-テレから『旧約聖書コヘレト書(伝道の書)』の一節が流れてきた。

 「正しい行いの人であっても、まったく罪を犯さない人などいない」という主旨の節であった。その通りだと思い、帰宅後、『旧約聖書』を開いてみた。

 「コヘレト書」が「伝道の書」であることからであったので、少し手間取ったものの、無事に該当の節と思われる箇所にたどり着いた。

「この地上に、正しい人はひとりもいない。善を行ない、罪に陥ることのない人は。」(伝道 7:20)

新日本聖書刊行会 翻訳. 旧約聖書 新改訳2017 (新改訳聖書センター) (Kindle の位置No.78818-78822). INOCHINOKOTOBASHA. Kindle 版.

  番組で紹介されていた訳文は、さらにわかりやすかったように思う。(現在取り寄せ中)

 間違えない人はいないんだよと言ってもらっているようで、こういう言葉を聞くと、間違いだらけの自分はとても救われる。

 「善を行なえば、罪にも陥る」とも読める。「善が同時に罪深い行いだ」という意味ではなく、「罪に陥ることなく、善のみを行なう正しい人は、この地上にはいない」ということなのであろう。

 

■ 「正論」が疎ましがられるのは?

 「正論」は、しばしば疎ましがられる。それは、正論それ自体というより、正論の主張者に、その考えが間違っているかもしれないという、慎重さ、謙虚さ、あるいは、相手方に対する思いやりといったものが欠けているからなのかもしれない。「謙遜は栄誉に先立つ」と「箴言」18:14は教えている。自戒を込めて。。

新日本聖書刊行会 翻訳. 旧約聖書 新改訳2017 (新改訳聖書センター) (Kindle の位置No.76447-76457). INOCHINOKOTOBASHA. Kindle 版.

 

■ アラビヤ語訳から「正しい人」を見ておく

 ちなみに手元にあるアラビヤ語訳"التفسير التطبيقي للكتاب المقدس"では、

 ليس من صدِّيقٍ على وجه الأرض يصنع خيرا ولا يُخطِيءُ

 となっていて、直訳すると「大地の上には、間違いを犯さず善い行いをなす正しき者はいない」となる。

 「正しき者」に当たるアラビヤ語には、صدِّيقٍ の語が用いられている。「真実を語る、正直である、誠実である」を意味する動詞に由来している。ヘブライ語においてもこの部分には、 צַדִּ יק つまり、 tzidiik の語が見いだされる。

 これは、アラビヤ語の「シッディーク」である。このヘブライ語をグーグル翻訳にかけると英語、日本語では適切な翻訳を行なわれず、アラビヤ語のみ「サーリフ صالح 」と訳されてくる。「良さ、正しさ、健全さ、高潔さ」などを含意する「正しい(人)」である。ヘブライ語からの英訳でも、逐語訳は righteous one が、章句全体の訳の中では just man が用いられていて、日本語で読んだときに感じるニュアンスと重なる部分も多くなるのかもしれない。

 

■  正しい人 愚かな人

 最後に、もう一つ注意点がある。間違いを犯さずに善い行いをできないのは「正しい人」だという点である。厳密には、「間違えない人はいないのだよ」ではなく、「正しい人でも間違えない人はいないのだよ」である。「伝道の書」においても、あるいは、その前の「箴言」においても、「正しい人」「知恵ある者」「知者」などの対極に位置する「愚かな者」については、厳しく辛く絶望的な宣告が下されているのだ。


2021/01/22

「やっぱり」と「しっかり」の応酬が不安感と空虚感を加速する

 ■無意識に使われる二つの言葉

 日常会話でほとんど無意識に使われることが多い「やっぱり」。そして、とりわけ頑張ろうとする人たちが、これも無意識に話に挟み込んでくる「しっかり」。この二つの言葉で埋め尽くされた言語空間こそが、不安と虚しさを生み出す元凶になりうるのではないか。ごく最近の首相らの言葉も引用しながら考えてみた。

 

■「やっぱり」は押しつけがましい !?

コロナ禍について、日々多くのコメントが発せられる報道報道番組やワイドショー。どうしても気になる言葉づかい、それが「やっぱり」である。「やっぱり」とか「やはり」という言葉が頻発する。

 「やはり」 には、4つの意味があるとされている。

 デジタル大辞泉(小学館)では、

[副]

以前と、また他と比べて違いがないさま。やっぱり。「あなたは今も矢張りあの店へ行きますか」「父も矢張り教師をしていた」

予測したとおりになるさま。案の定。やっぱり。「彼は矢張り来なかった」

さまざまに考えてみても、結局は同じ結果になるさま。つまるところ。やっぱり。「随分迷ったが、矢張り行くのはやめにした」「利口なようでも矢張り子供は子供だ」

動かずにいるさま。

「老いたと言ひて、―あたたかにしてゐて」〈史記抄・匈奴伝〉

 

 「2 予測したとおりになるさま」、には予測が前提になるが、「やはり」や「やっぱり」が便利なのは、どのような予測なのかを示さずに使えるところだ。

 また「3 さまざまに考えてみても、結局は同じ結果になるさま」にも、「さまざまに考えた」はずなのではあるけれど、「やはり」や「やっぱり」と言ってしまえば、何をどのように考えたのかについては示す必要がなくなる。

 根拠や論拠を具体的に示すことなく、結論ないしは主張のみをあたかもそれが当然であるかのように述べられるのである。

 「1 以前とか他と比べて同じ」というのも、以前とはいつからなのかとか、他とは具体的に誰のことを指すのかなどを省くことができる。

 「やはり」や「やっぱり」を連発するコメンテーターの話は、押し付けがましくさえある。その切り口から発言を聞いてみてほしい。

 そしてそれは他人事ではない。使わないように気を付けていても「やはり」や「やっぱり」に頼って話をしている自分にハッとすることも少なくない。

 

■「しっかり」は捉えどころがない

 一方、「しっかり」 も、『デジタル大辞泉』によれば、

物事の基礎や構成が堅固で安定しているさま。

㋐かたく強いさま。「ロープを―(と)結ぶ」

㋑確かでゆるがないさま。「土台の―(と)した建物」

考えや人柄などが堅実で信用できるさま。「―(と)した意見の持ち主」「論旨の―(と)した論文」

気持ちを引き締めて確実にするさま。「―(と)勉強する」「上級生らしく―しなさい」

身心が健全であるさま。また、意識がはっきりしているさま。「―(と)した足どり」「高齢でも頭は―している」

十分であるさま。たくさん。皮肉をこめていうこともある。「今のうちに―(と)食べておく」「金を―ためこんでいる」

相場が上昇傾向にあるさま。

 と定義されるが、政策に関する発言において使われうるのは、

「1 物事の基礎や構成が堅固で安定しているさま。」

「2 考えや人柄などが堅実で信用できるさま。」

「3 気持ちを引き締めて確実にするさま」

「5 十分であるさま。たくさん。皮肉をこめていうこともある」。

あたりとなる。政策や方策の基礎がしっかりと安定している、あるいは、しっかりとしていて信用できる、しっかりと気持ちを引き締めて実行していく、政策や方策が十分なほどしっかりしているといった意味で「しっかり」が用いられるはずである。

 

■新型コロナウイルス感染症に対する総理会見の中の「しっかり」


 たとえば、「新型コロナウイルス感染症に関する菅内閣総理大臣記者会見」(令和3年1月13日)の中の総理の発言の中の「しっかり」は次の通り。

「今回の対策全体が効果を挙げるには、国と都道府県がしっかり連携し、国民の皆さんの御協力を頂くことが極めて重要なことです」

「医療体制の確保にも全力を挙げています。東京都では、コロナ病床の確保のために国と一つのチームになって、国がしっかり財政支援を用意した上で、一つ一つの病院に直接働きかけを行い、今年になって500床の病床を確保しました」。

「そうしたことを国民の皆さんに強く訴えると同時に、引き続き、この飲食店の時間短縮を始めとする今回の4つの対策、こうしたものをしっかり実施して、国民の皆さんにも御協力を頂く中で、感染を減少させていきたい」。

「このコロナ感染者への医療について、政府として、そこに対応してもらっているその医療機関に対して、しっかり御支援をさせていただいたり・・・」

(いずれも太字は著者による)

  しっかりの対象は、都道府県との連携であり、東京都に対する国の財政支援であり、時短営業など4つの対策の実施であり、医療機関に対する支援である。

 仮に、上の「しっかり」を、安定・信用・気持ち・十分に分けたとするならば、コロナ対策に関しては、安定や信用、さらには十分のしっかりが努力目標にしかならない現状がある。ということは、これらの「しっかり」は「気持ちを確かに引き締めて行う」という改めて言われる必要もないことの表明にしかなっていない。

 

■「政府としてもしっかり対応」東京オリパラ成功に向けて

 東京オリンピックパラリンピックの開催についての加藤官房長官の発言にも「しっかり」がある。https://jp.reuters.com/article/tokusohou-idJPKBN29N05C

 ロイターが18日に伝えたところによれば、 加藤官房長官は18日午前の会見で、東京オリンピック・パラリンピックの開催については、「大会の成功に向けて「政府としてもしっかり対応していきたい」と述べた」と言う。ちなみに見出しにも「しっかり」が入っている。「東京オリ・パラ、成功に向けしっかり対応=加藤官房長官」

 この「しっかり」が、「政府としても」気持ちを確かに引き締めてしっかりとということであったのなら、政府の気持ちの引き締め方とは何なのかがにわかにはわからないため、分かったようでわからない表明になってしまっている。 

 西村経済再生担当大臣には、17日のNHK「日曜討論」の記事に「しっかり」があった。

「午後8時までの営業時間短縮を飲食店にお願いし、その分、しっかりと支援していく。そのうえで、人の流れと、人と人との接触も減らさなくてはならず、不要不急の外出自粛と、出勤者の7割削減をお願いしている」

 この「しっかり」は、十分にの「しっかり」であってほしいが、具体的な方法についての言及に欠けるため、これもまた、精神論の「しっかり」でもあるかもしれない。

 

■もちろん、そういうつもりではないのだろうけれど。。

 「やっぱり」同様「しっかり」も実に便利な言葉である。なぜならば、気持ちの上での「しっかり感」の意味を含み持つため、安定性、信用性、充実性に欠けていたとしても、「しっかりやります」という気持ちでそれらを覆うことができてしまうからである。

 安定性なり信用性、あるいは充実性を示すためには、どのようにしっかりそれらを達成するのか、あるいは達成されたことを検証するのかまで含めて「しっかり」としていなければならない。つまり、本当に「しっかり」やっているのならば、「しっかり」という言葉を使う必要がなくなるのだ。

 

■「しっかりしろ」と言わせてくれるな

 「やっぱり」と「しっかり」どちらも実態を覆い隠す作用のある言葉だ。

 「やっぱり」では、その前提となる、事実なり、状況なり、思いなり、文脈なりが語られることなく、「やっぱりそうだよね」というおそらくは話者の一方的な思い込みによるかもしれない得体のしれない了解の下、主張だけが行なわれる。おそらくそれが、「やっぱり」を頻発する主張に押しつけがましさを感じる所以であろう。

 「しっかり」では、何をどう具体的に「しっかり」行って、しっかりとした基礎と安定性を持つ方法を構築し、いかに「しっかり」とした成果に結びつけるのかを示すことなく、「しっかりやっているのだから」と聞き手に有無を言わせない、いや、言う気にさせない。

 つまり、「やっぱり」と言わせないように「しっかり」してほしいということになるが、こうして「やっぱり」と「しっかり」の応酬がメディアを占拠している間にも、コロナの感染は広がり、医療体制は、逼迫から崩壊へ一直線である。もはや何が「やっぱり」なのか、いかに「しっかり」なのかを示さない議論に付き合っているほど余裕も関心もない。

 若者にメッセージが届かないと嘆く前に、「やっぱり」と「しっかり」を一回でも使うのを減らして、具体的な話をすること、つまり、自らの言葉づかいを精査し、「やっぱり」と言わずに根拠を、そして「しっかり」と言わずに具体的な方策を示していただければと思う。

 

■自助・共助・公助の前に

 そしてそのことは、メディアを通じて伝えられる発言だけの問題ではない。

 「やっぱり」と「しっかり」が日常的に使われているとするならば、そのコミュニケーションは、かみ合っているようでかみ合わない。映像や音がもてはやされる一因には、伝わっていそうで全然伝わっていないそうしたコミュニケーションのもどかしさもあるのだろう。。しかし、コロナ禍の中でそのもどかしさは圧倒的な不安感と空虚感となり、その中にすっかり取り込まれてしまった。もはや簡単に出口は見出だせそうにもない。

 とはいえ、問題の一端が「やっぱり」と「しっかり」の多用にあるのだとすれば、メディアに出る出ないにかかわりなく、まずは、自分の発話、発言について「やっぱり」「しっかり」を頻発しないよう心掛ける。コロナでなくても「やっぱり」と「しっかり」が醸し出す世界は、現実を置き去りにしてうわ滑っていくようなところがあるからだ。

 こうしてメディアから発せられる「やっぱり」と「しっかり」のみならず、自分の「やっぱり」と「しっかり」をまずは意識化してみよう。コロナに隙間を「しっかり」埋められ重くのしかかる不安感・空虚感から抜け出す糸口は、おそらく自助・共助・公助にはない。まずは自立した言葉を使うこと。「やっぱり」「しっかり」を使わないで話してみようとするところから不安感・虚無感は案外緩んでいくのかもしれない。


2021/01/19

「VUCA」のダブルバインドから抜け出すためには?

■VUCAとは 

 Volatility―変動性、Uncertainty―不確実性、Complexity―複雑性、Ambiguity―曖昧性の頭文字をとったビジネス用語で、もともとは1990年代に軍事用語として誕生し、今や経営者の常識であるらしい。

 健康社会学者の河合薫氏は、コロナ禍は、そのVUCAの世界だという。(「「首相!岡は岡でも」ビジョンなきリーダーとフォロワーの裏切り」「日経ビジネス」2021年1月19日)

 その指摘によれば、「VUCAの世界では、とりわけリーダーの役割は重要で、「明確なビジョンなきリーダー」は、チームを崩壊させる」のであり、ビジョンもなく、フォロワーにも裏切られている現在の政府の対策の状況では、とてもコロナ禍に太刀打ちができない。

 まずはVUCAの世界と戦うための道しるべとなるビジョンを示せと。それがなければ戦えないのだからというのが河合氏の主張と読んだ。

 

■どうりで振り回される

 恐らく河合氏の論考は、菅内閣を叱咤激励するためのものであるため、ビジョンとフォロワーに限って論が進められているが、それを読んでいて、菅内閣の一向に的を射ない様々な対応自体が、VUCAの世界になっていやしないかと感じた。

 変動的で不確実で複雑で曖昧。変わりやすく、確かなことは何もなく、いろいろが絡み合ってしまっていて、しかもはっきりしない。コロナに振り回されているのだからそうなってしまうのはやむを得ないところがあるにしても、コロナの感染拡大に振り回され、政府の対応にまた振り回される。VUCAのダブルバインドだ。

 

 ■もはや過去の成功体験は役立たない

 そうしたダブルバインド的状況をいかに切り抜けるべきか。ヒントは意外にも同論考の中にあった。参考になるのは、次の記述だ。

「(アルカイダなどテロとの戦いのような)“新しい戦争”に勝つには、かつてのトップダウンの戦い方とは異なる、柔軟かつ即決性のある、その時々に応じた戦い方が必要になり、VUCAという言葉が使われるようになった」のであり、「ビジネス環境においても、2000年代にグローバル化やAIなどの技術が劇的に進歩し、かつての成功経験が役立たなくなった。トップが戦略を立て、現場が実行する「ピラミッド型」では生き残れない時代になった。」という。

 そうした状況の中、「米国のビジネス世界でもVUCAという言葉が使われるようになり、特殊作戦部隊のオペレーションに学ぶ企業マネジメント研究や、個精鋭兵士たちのスキルに注目した個人のキャリアの磨き方の研究が急増した」のだという。

 つまり、トップの立てた戦略にとらわれない特殊作戦部隊のオペレーション、あるいは、誰もが精鋭兵士になるための個人のキャリアと言ったものこそが、VUCAの世界を生き残るため中核に据えられるべきものであろう。

 

 ■ビジョンと裏切らないフォロワーの困った関係

 ビジョンや裏切らないフォロワーも必要であろうが、つい先日米国国会議事堂で起きたのは、明確なビジョンの持ち主と彼を決して裏切らないフォロワーたちが起こした事態ではなかったか。

 いや、他国を例に引くまでもない、「八紘一宇」、「鬼畜米英」などはあの時代、圧倒的にフォローされたビジョンではなかったか。コロナとの戦いで、首相がビジョンを示し、フォロワーも裏切ることなくついていったとしても、先例が意味をなさないVUCAの世界では、そのトップダウンでは、切り抜けられないのではと危惧する。

 

 ■この状態でも争っている人間たちへのメッセージとしてのコロナ

 テロやテロとの戦いでは、一般市民が巻き沿いになることはあっても、市民自らが戦線の先頭に立つことはなかった。特殊部隊、精鋭部隊に任せておけばよかったのかもしれない。もちろん、制圧・撲滅・完全勝利をもって戦いが終わるという種類の戦いが想定されていてはじめて、特殊部隊や精鋭部隊の登場となるのではある。

 しかし、まさに見えない敵コロナとの戦いにおいては、たとえ自宅で自粛していようが、一人一人が最前線に立たされている。そこに、それこそ国籍、人種、信仰、ジェンダー、貧富、性的指向、犯罪歴などによる差別があってはいけないのだ。あるのは、人間同士の距離を保った同胞意識。人間は、ただ人間であるというただそれだけの理由で人間として扱われる。

 とはいえ、国も社会も家族も頼りにならないVUAC状態。それだったらどうするのか。自分自身による自分自身と自分の大切な人々が生き残るための日々の努力。できる限り隣の人や国にも思いをはせ、援けつつ。。その積み重ねが、共存にせよ、鎮圧にせよ、コロナ前提の社会を、きっとVUAC的に創っていくのではなかろうか。

 そのためにはまず自分自身の中にある、変動性、不確実性、複雑性、曖昧性をまずは認めるところからなのだろうと思う。

  *イスラーム的に言えば、小ジハードから大ジハードへという話。自分自身に対するジハードという言い方もある。アッラーはすべてを御存知。

参考URL:

(「「首相!岡は岡でも」ビジョンなきリーダーとフォロワーの裏切り」「日経ビジネス」2021年1月19日) 

2021/01/17

クロスロードトレーディングのアレッポ石鹸、アマゾンカスタマーレビューが採用されました

カスタマーレビュー

アハラン・カマール
5つ星のうち5.0

2021年1月15日に日本でレビュー済み

Amazonで購入
 
アレッポ石鹸使用歴約30年の愛用者の目から見て、製造工程・材料調達・チェックに手抜きなし、一切の混ぜ物もなしの「誠実で信頼のおける商人たち」による石鹸。
 
合成界面活性剤とも無縁で、汚れ落としと保湿を両立する「ザ・天然石鹸」。手洗いソープに切り替えて荒れてしまい、アルコール消毒がいちいち沁みるようなになっていた手荒れは、短期間で修復された。
 
新しい生活様式の手荒れに最適の石鹸ではないかと個人的には思う。

2021/01/16

いつまでも座っていたいような穏やかな風景をカフェランチとともに堪能する


  生活に必要な外出が昼の時間に及んでしまい、ランチに立ち寄った。入るとすぐに感染対策、広い店内に、先客は一組。

 ランチのピザは3種類から選べた。サラミは食べないので、明太子とマヨネーズのピザをチョイス。もちもちの生地で明太子たっぷり。飽きさせない味を楽しんだ(サラダ・ドリンク・飲み物付きで1,100円(税込み))。ホットチョコレートもクリームたっぷりで豪華!(600円)。

 
 
 そして何よりの贅沢が真冬の日差しにも輝きを忘れない相模湖を抱く奥相模・津久井の自然。

 自粛の縛りが短時間でほどけて、すっかりゆったりとした気分に。With Community を応援してくれるカフェに感謝。春が待ち遠しい。

(食べログ「アハランカマールの気になるレストランラビュー」にも同旨の記事を投稿)

 



2021/01/13

コロナにも「正しさ」にも振り回されない:NHK総合クローズアップ現代(1月13日放送)をみて

 緊急事態ではあるけれど、緊急事態にかこつけて誰にとって、何にとっての「正しさ」なのかを提示しないで「正しいデータの活用」などという言葉が振り回されはしなかったであろうか。聞き違いならばよいのだけれど、ちょっと傲りと怖さを感じた。

 そもそも事実そのものとしての正しさなど存在しない。事実そのものがどうしても文脈に依存するし、その事実の読み方、感じ方も実は千差万別なのだから、ビッグデータのデータであったとしても、データ収集者の意図(あるいは恣意性)から逃れることはできない。要は、ちょっと乱暴だけれど、データに正しさなどないのだ。

 コロナに限って言っても、コロナとの共存を前提とするのか、コロナの撲滅を前提とするのか、それも、全世界でそうするのか、日本だけでそうするのかでも「正しさ」の基準はまったく異なってくる。

 もちろん、データの収集解析を通じてこの事態を政府や世界と手を携えて収集・収束へ向けた関係者の奮闘努力に対しては、最大限の敬意と賛辞を送りたい。

 そうした尽力にも見合う説得力のある判断と説明が実際に行われているかどうかは別として、政治家はその時々で「正しい」判断を期待される。これに対して、とりわけ私のような人文社会寄りの総合系の学者、研究者は、「正しさ」は相対的なものでしかないことをたとえ「石ころだらけの情報」の一つにさえなっていないとしても、発信し続けるべきなのであろうと考えた。

 歴史をみるまでもなく、みんなが一致して正しいというくらい破滅的なことはない。また自分を振り返ってみても「正しい」と思ったことはたいてい間違っている。聖典の「正しさ」の危うさに気が付けたこともあるからなおさらなのかもしれないが、「正しさ」には、法律があるからというレベルとは別に、個別の事情も含めた徹底的な検証と、人の数だけ「正義」があるという視点を欠くことができない。

 とはいえ、この事態である。せめて「正しい」とされる情報に向き合う際に鵜呑みにしない余裕を持とう。グーグル検索のトップに出てきたとしても、誰にとって、何にとって「正しい」情報なのかはわからないのだし、ユバル・ノア・ハラリが指摘するように、自分の思考自体がすでにハッキングされている可能性もあるのだから。

 (となると探究すべきは、ハッキングを行なっている主体。それが特定の人なのか、組織なのか、果てまた、得体も行方も知れない目的意識のようなものなのか、そしてその主体にとっての「正しさ」とは。。そんな風に考えてしまうこと自体が、陰謀説に乗せられているということなのか。このブログを通じて皆様からのお知恵をお借りしながら考えていきたい)

 

2021/01/12

本格インド料理 サヒ・カナの幻の鴨カレー

 「通い始めて10カ月近く。まるで現地の日常がそこにあるかのような本格インド料理店。マトン・ビーフ・チキン・シーフード・サグ、、お肉料理も含め、何を食べてもおいしい。

 バングラディシュ出身の店主とインド出身のシェフの2人体制。味はもちろん、サービスにも、応対にも気遣いが感じられるところがうれしい。店内スペースに余裕があるので3密にもなりにくい。そのうえ、価格までもが良心的!

 古い友達の家を訪ねてくるかのような常連客が多いのも店のクオリティの証明か。
コロナ禍の今年、からだだけでなく心にも栄養をもらった気がする。相模原に元気ももらえるこんなお店があって本当に有り難い。」

 ということを食べログに書いてみたのだけれど、よろしかったらご覧ください。

 ところで一昨日、ハラールの鴨肉が入手できたということで、試作品のダックカレーのご相伴にあずかった。

 柔らかくてしかもコクのあるお肉が、カレーの中で旨味を出して私を待っていてくれた。

 鴨と言えば、鴨南蛮か北京ダックが定番だけれど、サヒ・カナの鴨カレーは、鴨肉独特のこってり感(チキンよりマトンに近い感じ)とカレーとの絶妙の相性を教えてくれた。骨付きの鴨肉が堪能できたという点でも新しい味だった。

 ごちそうさまでした。

 なお、鴨肉が入荷できた際には、限定メニューで食べることができるとのこと。

 サヒ・カナの楽しみがまた一つ増えた。

 

★緊急事態宣言に伴い、夜の営業時間は 20時(ラストオーダー:19時)までになってますいるのでお出かけの際にはご注意を。


新しい生活様式の手荒れにサヨナラ:アレッポ石鹸

■新しい生活様式は手が荒れる

 新しい生活様式の実践が始まって起床後と帰宅後に入念に手を洗うようになり、かつ、水仕事もするようになったある日、買い物の際スーパーの入り口のアルコール殺菌に手が沁みることに気づく。

 手が荒れて、軽くあかぎれのようになっていた。手荒れの原因は、どうやら合成界面活性剤。洗い物の際の中性洗剤にも含まれいるので、朝晩の洗い物も含めると手が荒れて当然だ。

悲しいことに、「天然由来」や「植物系」と表現している食器洗剤でも、ほぼすべてが手荒れしやすい合成界面活性剤といっても過言ではありません。」などと言う記述も見つけた。

  そこで、たどり着いたのが、合成界面活性剤を一切含まず、油脂からつくられている石鹸の使用だ。

 何しろ、合成界面活性剤はどうしても手に残り、肌のバリア機能を保つ常在菌を傷め付けるばかりか、角質層を壊していってしまう」という。つまり手荒れ。

 

■おすすめはアレッポ石鹸 

 アレッポとは、ダマスカスと並ぶシリアの大都市(ウィキペディアにはシリア最大の都市との記述あり)の名称。少なくとも、4000年近い歴史を持つ。そのアレッポでオリーブオイルと月桂樹オイルとソーダ分を原料につくられ続けているのが、アレッポ石鹸。(ちなみに筆者は、シリアに在住のころから、30年近くにわたって愛用している。)

 アレッポ石鹸を取り扱っている業者は、複数あり、製品自体がの確保が難しい中ご苦労も多いと思われる。

 そのアレッポ石鹸の生産が、トルコのガジアンテップで再開しているらしく、アマゾンで容易に入手することができる。しかも、驚くほどのリーゾナブルな価格である。アレッポ石鹸製造者(バラカート社、社長:ナーディル・バラカート氏)および輸入販売業者(Cross Road Trading)の心意気が伝わってくるようだ。

 実際に届けられた石鹸には、アラビヤ語で「月桂樹石鹸」の文字が刻印されている。

 原材料の記載は「石鹸成分」(オリーブオイル)のみだが、開封時に漂った高貴な香りは、月桂樹のもの。アレッポ商人の研究で懇意にしていた石鹸頭領の工房の匂いだ。石鹸の刻印には、「特級(ムムターズ)」ともあった。

 

左は、シリア、アフリーン地区のオリーブ畑(99年9月3日著者撮影)ガジアンテップのあるトルコとの国境が、写真の奥の方に引かれている。

 

 

 

 

 

■普段使いに最適!ローレル10%のアレッポ石鹸 

  HPで確認すると、この商品は、「アレッポのソープ」(ノーマルタイプ)に当たり、10%のローレル、90%のオリーブオイルとなっていた。 

 もちろん、合成界面活性剤とは無縁。保存料、着色料、防腐剤、香料も無添加だ。

 アレッポ石鹸の使用感は、きめ細かい泡立ちと、さっぱりとした泡切れに特長がある。併用することになった手持ちのアレッポ石鹸(数年前にヨルダンで入手した)とも一切遜色なし。新しい分だけ、泡立ちも香りもよい。オリーブオイルの保湿効果が手伝うので、数日の連続使用で、手の甲が水をはじくのを確認できた。

 おかげで手荒れからはすっかり解放された。

 確かに「ムムターズ(たいへん良い)」。表記に偽りなしだ!

 アルハムドゥリッラー(すべての称讃はアッラーにある)

 ぜひ一度お試しを!

(購入商品は、アマゾンで「アレッポのソープ6個セット」。税込み1880円(313円/個)クロスロードのウェブサイトからも直接注文できる

 洗い物についても、台所石鹸を用いるようにしたところ、これもすこぶる具合がよい。石鹸なのでそれ自体泡切れはよいので、時間をおかずにすすぐことがポイントになる。

 ガジアンテップは、トルコ南東部の大都市。都市の中央に城砦を擁し、その周りに旧市街が広がる姿は、アレッポを彷彿とさせてくれる。平時であれば、アレッポからバスで3時間ほど北上すれば着く。私の友人たちも含め内戦を逃れて避難・生活しているアレッポの人々も多い。

 

■早速、クロスロードのガザ―ル社長から直接お電話をいただきました!

 クロスロードトレーディングでは、長年石鹸産業にかかわってきた経験を活かし、直接ガジアンテップのアレッポ石鹸業者に製造を依頼しているが、単なる出来合いの製品の輸入ではない。ガザ―ル社長は、使用するオリーブオイルの細かい品質チェックなど、伝統的な製造方法では見過ごされがちな部分にも積極的に口を出して、いわばオリジナルのアレッポ石鹸を作っている。素材と伝統を生かしつつもそれに甘えず、理想の石鹸を追及しているのだ。

 ローレルの香りが強くないのも、まじめに良質の石鹸を追い求めた結果である。クロスロードの石鹸づくりの工程では、釜炊きの早い段階からローレルオイルも一緒に入れるのだという。香りはその段階から飛び始めてしまうので弱くなるけれど、石鹸成分の中に組み込まれる。香りづけに最後の段階で入れると、石鹸が酸性に傾いてしまって、香りこそすれ汚れは落ちにくくなってしまうのだ。しかも、ローレルオイルは高価なため人工香料を使う業者が少なくないことは、筆者も石鹸づくりの調査で聞いたことがある。

 シャーム人(ダマスカス出身の人)として、シリア人として、そしてムスリムとして、日本で石鹸を買ってくれる皆さんにできるだけよい品物を届け、自分たちの会社が日本との間のクロスロードになれればという社長の強い思いに触れ、誠実で信頼のおける商人は、(最後の審判に日に)預言者たち、(共同体に対して)誠心誠意を尽くした者たち、殉教者たちとともにある』(アッ=ティルミディーのスナン、売買の書)という聖預言者ムハンマドの言葉を思い出した。

 アルハムドゥリッラー。

 

群れから離れて世界を観よ:ソーシャルディスタンスについて

■ソーシャルディスタンスとは

 コロナの感染拡大が止まらない。感染拡大の報道も止まらない。人々の不安も止まらない。1都3県に続いて明日は、関西3府県と東海2県、そして福岡・栃木にも緊急事態宣言が発出されてようとしている。一人ひとりの行動に変容が強く求められている中、ソーシャルディスタンスについて考えてみたい。

 ソーシャルディスタンスという言葉については、フィジカルディスタンスというべきではないのかとか、公衆衛生学では感染予防の手段として「ソーシャルディスタンシング」という言い方がされていたとか、社会学でソーシャルディスタンスというと心理的な距離を取るという意味になってしまうなど、用語法自体の問題が指摘されるが、ここでは、多くの人々が集まるような場所では隣りに人と物理的に1メートルないし2メートルの距離を取ることとして、話を進めたい。

 感染拡大を予防するために、この距離の確保は不可欠であるが、今後もまた新たなパンデミックに晒されることを思うと、距離の確保を前提とした社会のありようの提示は今や不可避な状況である。

 

■群れて暮らす

 隣の人と距離を取りなさいというのは、つまり、群れて暮らすのはやめなさいという命令に等しい。たとえば、コンサート、たとえばスポーツ観戦、たとえば、ライブ。群れるために、あるいは群れることが前提になっている活動は多い。コロナ禍の中、コロナ以前の巨大コンサートに波打つ人々の映像を見ると、よくこれで誰も病気にならないものだと変な関心をしてしまう。

 たとえば、初詣や、初日の出。これらにおいても、人々は群れている。さらに、モスクでの集団礼拝、キリスト教会でのミサ。ラマダーン明けの集団礼拝など、人々はひしめき合っているし、人気のイマーム(導師)の説教があるとなれば、どこの街であろうが通常の金曜礼拝もあふれるばかりの人だかりとなる。

となれば、たとえば国家。〇〇人という形で「群れ」として人々が束ねられる。

 

■ 群れるのが好き

 ソーシャルディスタンスといったときに心理的・社会的な隔たりを感じさせるのが問題だという指摘がある。しかしながら、コンサート会場で、スタジアムで、ライブハウスで、神社仏閣の御参りで、観光地で、教会で、モスクで、聖地で、国家で、群れていられれば、ひしめき合っていられれば、心理的にも社会的にも隔てられていないし、安心もできると刷り込み、刷り込まれてしまっているのも考えものだ。

 たしかに、同居家族はどうしても濃厚接触になるし、濃厚接触がなければ、子孫に恵まれることも難しい。しかし、だからと言って、ひな鳥のごとく巣の中で四六時中ひしめき合っているという意味で濃厚接触者同士であり続ける必要はない。

 しかし、人々は群れるのが好きだ。小学校の国語の教材に「スイミー」というお話がある。小さい魚たちが大きな魚の形の群れをなして、大きな魚を追い払うというお話だ。知恵と団結と協力を称賛する内容かと思う。「スイミー」がもしも狂っていたら、あるいは、何かに操作されていたとしたら、それでも、その群れは、スイミーについていくはずだ。動物行動学では、よく取り上げられる話である。

 動物行動学によれば、イワシやハヤなどのように、群れていないといられない魚と、エンゼルフィッシュのように、むしろ自分の縄張りに別の魚が入ってくると攻撃を仕掛ける魚がいるという。集団主義的傾向を持つ人々がいる一方で個人主義的な人々もいるということを示唆している見ることができる。

 恐いなと思うのは、個人主義的な傾向のある人々が、狂ったリーダーの下で群れをなして動き出したとき。自分たちが法であり秩序であるため、手が付けられない。また、集団主義的な傾向のある人々、あるいは個人主義が十分に育っていない人々の間では、とにかく互いに身を寄せ合おうとするだけなので、息苦しさが増すばかり。自分の方が苦しいのにと他人をせめてもどこにも進めない。

 

 ■それにしても群れてきた

 モスクで人が祈るようになって1400年。教会については2000年。コロッセウムもだいたい同時期から。農耕は、1万年。そんな大げさなと思われるかもしれないけれど、コロナは、1万年の「群れて生きる」生活・社会様式の抜本的な見直しを迫っているともいえる。

 市場に群れることで回る経済、工場に群れ、オフィスに群れることで支払ってもらえる仕事、議場に群れて何も決められない政治、大きな会場に群れるエンターテインメント、聖地に群がる信仰、群れの規模や経済力で決まる正義、個より群れを優先し死ぬことさえ喜ぶ死生観。。。

 これらを変えるのは、とてつもないことのように思えるかもしれないけれど、すでに変化は始まっている。アハ体験が教えるように、人間の脳は微妙な変化の連続を捉えるのはあまり得意ではない。だから、社会的なカタストロフや、パラダイムチェンジに見舞われるのだ。ということは、群れの中にいて、あるいはネットの檻の中にいて、周りを観ようとしなければ、やがて大変革・大混乱に飲み込まれることになる。

 

■求められるのは「群れから離れて世界を見ること」

 個人的には、コロナについて世界中が日々刻々と情報を共有しているのは、明るい要素だと思える。情報の真偽や、取捨選択の問題はあるにしても、新しいウィルスの感染拡大・収束状況や全世界がどのように戦っているのかを知ることができ、できるだけ犠牲者をださないため、いや少なくとも自分が犠牲者にならないためにはどうしたらよいのかを考えることができるからだ。

 過去のウイルスとの戦いを見てもわかるようにコロナウイルスの収束までにはまだまだ時間がかかる。さらに3・4年かかるのかもしれないし、新たなウイルス感染に晒されてしまわないとも限らない。ワクチン開発を含め、スーパーコンピュータを擁するAIのおかげもあってもろもろの時間が短縮されていることも事実ではあろうが、それでも、時間は必要なのだと思う。性急に対策の成果を求めることは避けたいし、むしろ、刻々と進行している世界の変化に対する感性を群れから離れて磨きたい。。


■心理的社会的距離としてのソーシャルディスタンス

 かつてバングラディシュの国民的詩人ノズルル・イスラムは「頭を上げるのだ」と自らを鼓舞した。英国の植民地支配に対してそして人々に寄り添ってくれない宗教(的権威)に対して自らをそれらから決別させ「個」として「永遠の反逆者」であると宣言した。

 ノズルルが亡くなってからそろそろ50年になるが、この頃は、持ち上げたのではなく、持ち上げられた頭が、さらにハッキングされているかもしれない「個」のありようが気になる。コロナは肉眼では目に見えないだけにハッキングされた頭は、群れに引き戻されて、コロナの餌食になってしまわないとも限らない。

 案外、ソーシャルディスタンスという言葉が、社会的隔離のニュアンスを含みつつも用いられ続けているのは、群れることの閉塞感から離れ、パラダイムチェンジに備えようとする人々の無意識に支持されてのことなのかもしれない。


参考URL:

「「ソーシャルディスタンス」という“言葉の使い方”は大丈夫? 大学生が見つけた「人文学の抗議」に広がる共感」

 


2021/01/11

『反逆者』、宇宙をも貫く孤高の個としての「私」:丹下京子先生(ベンガル文学者)への感謝を込めて

■『反逆者』との出会い

 バングラディシュの国民的詩人、カジ・ノズルル・イスラムとの出会いをもたらしてくれたのは、かつての職場にほど近くにあって週に何度も通ったインド料理店の店主バングラディシュ人のラフマ―ン氏であった。ヒジュラ暦1441年のラマダーン月のイフタールに連日誘っていただいた。イフタールが済むと、イスラームやムスリムの社会や文化などについて様々な話をし、またいろいろと教えていただいた。

 その後、不幸にもお店に連日通うことはできなくなってしまったが、ラフマ―ン氏とはワンネス(一なること)について様々な構想をめぐらすことになり、その中で、人間観や宗教観についての私の話を聴いて思い出したのが、カジ・ノズルル・イスラムの『反逆者』であったというのだ。アイディアに通じるところがあるので、読んでみてはと勧められた。(『反逆者』については、ラフマ―ン氏に教わりながらのエッセイを、アッサラーム・アクションに連載を開始している

 

■一神教5.0

 ところで、私には、一神教5.0という温めている構想がある。

 1.0がユダヤ教、2.0が、キリスト教、そして、3.0がイスラーム。ここまでは既存の一神教の神学的な展開で説明ができる。

 一神教4.0は、いわゆる多神教を包摂する形の一神教。「信じる人々全体」を結んでいるはずの教えのレベルである。そこでは、〇〇教の神という考えは、乗り越えられる。

 そして、信じるということをしない物質主義者的な人々も含めて共有できる教えが一神教5.0である。そのレベルにおいて、展開されるものが「教え」と呼ぶにふさわしいのか、「神」という言葉を用いるのが適切なのかどうかも検討しなければならないが、人間たちにとって、いや少なくとも「私」にとっては、一神教3.0では、閉塞的な状況を助長することはあっても打開してくれるようには思えない。 

 

 ■『反逆者』の中の私

 さて、ノズルルイスラムの『反逆者』の中の「私」は、

 

の, 

し,

う!

グ,

す!

く!

丹下京子『」:』「第5号」(1993年)、44頁

 

る,勇る―り,宇え,頭た!


 丹下は、この「私」を、「即」,つた」ものと説明している。

 その「異次元の私」について丹下は、「,,宇え,頭は,全に,全に,唯る.」としている。

 

■神を凌駕する「私」

 また、この普遍的な私の背景にあるベンガル文学における「私」の位置づけに関する説明も参考になる。

 丹下によれば、近代以前のベンガル文学の主流は、ボイシュノブ(ヴァイシャナヴァ)と呼ばれる、西洋的な概念では抒情詩に当たるジャンルであり、サンスクリット文学のジャヤデーヴァをその源に持つその抒情詩群が、ラーダーとクリシュナの恋物語をうたい、数百年にわたって維持してきた安定的な「あなた」(=神)と「私」(自己)の世界を維持してきたという。

は,ボブ(ヴァ),つの―西な―る.もが,近る.そは,サち,繰い,そ」(=神)と」(=自己)のる.」(丹下京子『」:』「第5号」(1993年)、48頁)

 

 「は,多た.そ綿た.そ言―え―る.」丹下京子『」:』「第5号」(1993年)、50頁

  「そ」,どが,ノお,際る.」

丹下京子『」:』「第5号」(1993年)、48頁

 

■ワンネスの世界育てるバングラディシュ

 クルアーンに照らしてみれば、反逆者としての「私」は、まさにアッラーに成り代わったような「私」であるが、アッラーを人間の言葉の檻の中に閉じ込めて、あるいは、アッラーという権威の屋根の下に人間を閉じ込めているような状況下においては「反逆者たれ」である。永遠の反逆者は、凌駕された「あなた」が、再び、永遠の反逆者にふさわしい「あなた」になるのを待っているのかもしれない。

 「一神教5.0」では、普遍性、永遠性、「私」、「あなた」 などの諸概念に徹底的に反逆して、あたらな創造を行なうことが当面の課題になる。人が決定的に一人なのだとすれば、そして、人が一人で生き切れるほど強くないのだとすれば、それを受け止めてくれる、一人ひとりにとっての「あなた」なり「居場所」なりは構想しなければならない。一人や一つということがどこまでも貫かれるワンネスの世界とでも言えようか。その場所として、あるいはその担い手として、ノズルルイスラームの『反逆者』に今なお心震わせるラフマ―ン氏のような人物を生み出す、ムスリムでありながらもベンガル語による豊かな詩の世界を愛するバングラディシュの人々はきっととてもふさわしいのだと思える。

 

 なお、すでに1993年の段階でこのように現代においても示唆に富む論考を発表されていた丹下京子先生にこの場を借りて感謝申し上げます。大変参考に、そして勉強になりました。ありがとうございました。

 先生の『ノズルル詩集(花社)が入手できないで困っております。入手方法などについてご存知の方、assalamaction@gmail.com アッサラーム・アクションまでご一報いただけたら幸いです。)


参考文献

 丹下京子『」:』「第5号」(1993年) https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjasas1989/1993/5/1993_5_39/_pdf

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