2020年10月1日木曜日

男か女か、黒か白か、信者か不信心者かといった2分法(ダイコトミー)自体について考えておく

 本日から、日本航空の空港内アナウンスの英語表現が変わったという。Ladies and gentlemenというフレーズが姿を消したと。明らかな性差を含むこの表現を不快に感じる人々への配慮だとも伝えられていた。

 これは、世界中の人間をすべて男女のいずれかに分ける2分法を乗り越える試みともいえる。今週の日曜、東洋大学国際学部の市川教授の招きで、ソウル国立大学の Kong 教授とつないだ国際ミニワークショップでひさびさにプレゼンテーションを行った。そこでの私の主張の一つが2分法に気をつけよということであった。

 発表では、サスティナブルデベロップメントという概念自体の検討を行なった。まずは、持続性と発展性という相容れない物語が内包されていて、持続性は、円環的な時間観、発展性は直線的な時間観にそれぞれ結びついている点を指摘した。

 そして、この二つの時間観の対立あるいは緊張を乗り越える第3の時間観念の提示が必須であると主張した。つまり、持続的発展を時間観の観点からとらえなおし、両立の道を探るのが、持続性と発展性の間の緊張や対立を乗り越えて、まさに持続的な発展の実現に近づく一歩なのである。

  一般に、仏教の教えに見られるのが、円環的な時間観、キリスト教やイスラームに代表されるのが直線的な時間観とされる。ここにあるのも、2分法だ。時間の観念が二つに分けられている。ゴールを目指してひたすら進む直線的な時間と、ゴールは設定されず果てしなくとてつもない円を回り続ける円環的な時間である。

 直線的な時間観は、明日は今日より絶対よくなるから、とにかく進み続けようとする、あきらめることを知らない極めてポジティブな物語を生み出す。これに対して、円環的な時間観は、どんなに頑張ってみたところで結局は出発点に戻ってしまうのだから、何をやっても無駄であるというネガティブな物語に結びつきやすい。

 もちろん、ポジティブな時間観の中にあっても人生に対してネガティブな人はいるし、ネガティブな時間観の中にあっても人生に対してポジティブでいつも前向きな人はいる。人それぞれでよいはずだが2分法はそれを許さない。

 だが、二つのうちのどちらかしかないとと思いこんだり、2つのうちのどちらかでなければ困りますとしてしまったりする考え方自体が、問題を引き起こすのだ。

  敵と味方/信者と不信心者/真実と虚偽/天国と地獄/黒と白 などなど。

 世界を明確に敵と味方、信者と不信心者に分けるイスラームの聖典クルアーンから2分法をベースにした物語を一つ紹介しておこう。

(6:11) : {قُلْ سِيرُوا فِي الْأَرْضِ ثُمَّ انظُرُوا كَيْفَ كَانَ عَاقِبَةُ الْمُكَذِّبِينَ}

 《言ってやるがいい。(ムハンマドよ。)「地上を旅して、真理を拒否した者の最後が、どうであったかを見なさい。」》(家畜章11)

  すべての文明に寿命があることについては、イブン・ハルドゥーンの指摘を待つまでもないが、この聖句の命じるところによれば、滅んだ文明を生きた者たちはすべからく「真理を拒否した者」であり、滅亡自体が真理を拒否したことの帰結なのである。真理を知っている信者と真理を知らない(から滅亡させられてしまう)真理を拒否した不信心者。

 真理は、たゆまぬ探究を続けてもなお、明らかになどならないにもかかわらず、信者だというだけで真理を知った気になり、信者以外の人々を侮蔑し、その最後を呪いさえするような2分法がこの聖句の背後に見え隠れする。

 自分たちにのみ真理や正義があるかのような2分法、つまりダイコトミーには、とにかく注意を払いたい。以前のブログで、black lives matter ではなく、Human lives matter と言ってみては、という拙論を披歴したが、みんなの命は等しく大切なのであって、そこには黒とか白とかではなく、限りない多様性があるだけ

 黒とか、白とかと言ってしまったとたんに、黒か白かの2分法に乗ってしまう、巻き込まれる、あるいは、加担することになる。その意味で、大坂ナオミ選手には、自分をブラックだと言ってほしくない。「テニスプレーヤーである前に一人の人間」これで十分だと思う。

 黒か白かではなくひとりの人間。真理を受け容れたか拒否したかではなく、真理を探究し続けること。

 直線的な時間か円環的な時間かのダイコトミーについては、イスラームにしても、仏教にしてもそこからの出口を提示してはいる。時間に実体はないことを前提に宗教的な知見を探究することによってこの問題の解決の道筋は見えても来る。

 性差の問題は、肌の色の違い以上に、難しい問題をはらんでいるかもしれないが、男としてのフィクション、女としてのフィクションーーその内容は多岐にわたるしても――のみを生きることがいく世代にもわたって押し付けられ続けたことは間違いがない。

  Ladies and Gentlemen の廃止が、それ以外のダイコトミーの存在とその弊害について気づきのチャンスとなることを切に願う。

 


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