2020年5月10日日曜日

いまさらだけれど、ラマダーンが人間であることの証明である件について

 目下、世界17.5億人のイスラーム教徒たちが臨んでいるラマダーン月の斎戒。様々な解説がなされるけれど、現象面からのアプローチが多く、しかも、一見とても奇異な文化的慣行ではあるのだけれど、様々な効用があるという指摘を行なって了解してもらうタイプが多い。

 
  イスラーム教徒にとっては当たり前すぎるために、彼らの口から語られることはなく、またイスラーム教徒以外の人たちからすると、自分たちが行うのではないために、見落とされがちな事柄がある。


 それは、ラマダーンのサウム(斎戒)が意思によって行われなければならないということだ。ラマダーン月が始まる際に、あるいは、斎戒を行なう日ごとに、「サウムを行なう」ことを決めてから実際にサウムを行なう。寝坊をしたからと言って日没になってからその日最初の食事をしたからといっても、斎戒にはならない。そこに、斎戒の意思はないからである。


 決めたことを行なう。「(すべての)行為は意思による」とは、アッラーの御使いムハンマド(彼の上にアッラーの祈りと平安あれ)の言葉であり、私たちの日常的な法律の世界においても、意思による行為には、契約であれ、犯罪であれ、責任が問われるが、意思によらない行為、たとえば故意ではない犯罪では、罪が問われないことが原則だ。


 とはいえ、行為は意思によるとは、当たり前のようでありながら、なかなかできなことでもある。たとえば、朝、今日中にやっておこうと決めたことが、先延ばしになる。よくあることだ。どうも、決めたことができないところに人は悩み心を砕く。これはもう、イスラーム教徒に限った話ではない。 人類に共通の悩みと言っても過言ではない。


 そこでラマダーンの斎戒である。イスラーム法では、斎戒者の意思による斎戒であることが、ラマダーンの必須の要件になる。つまり、ラマダーンの一か月というのは、意思したことをやり通す1か月なのである。


 意思したことをやり遂げる。達成感の源である。自由な意思をもち、それによって行為するのが人間だとすれば、 様々な誘惑を振り切ってそれをやり遂げるのは、人間にしかできない、もっとも人間的な行為だと言えないであろうか。


 しかも、斎戒で求められるのは、食べず、飲まず、怒らず、妬まず、欲しがらずと、すべて消極的な行為である。スポーツのトレーニングや、受験勉強、あるいはボランティア活動のような積極的な行為とは対照的だ。「~を行なわない」というだけで特別な能力や気持ちを必要としない。にもかかわらず、決めたことができたという達成感を味わうことができるのだ。


 さらに言えば、この達成感は、誰も傷つけない。傷つけないどころか、食べなかった1食分が誰かの口に入る。スポーツの大会や受験勉強とは違って、敗者がいない。全員が勝てるゲームになっている。


 この人間に固有の、もっとも人間的な行為を、信者全体で行なおうというのがラマダーンのサウムなのである。つまり、「決めたことをやり遂げる」という人間にしかできない実践なのだ。したがって、ラマダーンの1か月は、人間であることを証明する一か月ということになる。決めたことができるのを確かめる機会だと考えるならば、それを、イスラーム教徒の文化的慣行の地位に置いておく必要はない。


 「決めたことをやり遂げる」ことができるのを確かめ、自分を実感したいと考えるのは、むしろイスラーム教徒以外の人々ではなかろうか。「あの人たち」の文化ではなく、「みんな」の元気の源にもなりうるのが、ラマダーンの根源にある、人間全体に対するメッセージ、つまり、さまざまな違いはあってもまずは人間であることの教えなのである。

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