2017年8月19日土曜日

「認証をとっておけば大丈夫」という落とし穴、情報開示によるハラール対応



「ハラール」という言葉をご存知だろうか。「ハラール認証」「ハラール食品」「ハラールマーク」といった形で聞いたことのある方も多いかと思う。「ハラール」ではなく「ハラル」だったのではないかと思っている方もいるかもしれないが、これも元をたどれば「ハラール」。「許されている」「合法である」ことを意味するアラビヤ語である。では、なぜこの「許容」や「合法」を示すアラビヤ語が日本でまで盛んに口にされるのか。それは、「ハラール」であることを証明してくれるお墨付き、つまり認証の取得が、世界に17億人を数えるとされるイスラーム教徒たち全体の市場に対する、商品の販売、サービスの提供などの際のパスポートなのだという誤解が渦巻いているためだ。
あなたが海苔の製造業者だったとしよう。国内の売り上げが低迷している中で、ハラール認証さえとれば、17億人のイスラーム教徒が貴社の海苔を食べるようになりますよと言葉巧みに勧めてくるのがハラール認証関係の業者である。ちょっと考えれば、17億人の中に日本人のように白いご飯を主食として食べている人はほとんどいないことぐらい気づきそうなものだが、業績回復への妄想にすべてはかき消される。かくして原材料や工場のラインなどを変更し、認証料を払い、12年経つと今度は更新料まで払ってはみる。が、一向に海苔は売れない。認証のために新たな設備投資を行う場合もあり、気が付けば会社の経営状況の悪化を加速する。
日本企業が巻き込まれたハラールがらみの事件と言えば、インドネシアでの味の素が有名だが、味の素は、その後社内の法務部を強化し、ムスリム諸国の各国について徹底的な調査を行い、各国別に対応を行っているという。「ハラール認証」についても是是非非。国際的大企業ならではの対応である。最近では、日本通運が積極的にハラール物流と称して、テレビCMでもアピールするなど、ハラールビジネスの牽引役の観さえ呈している。が、もともとこのハラール対応は、マレーシアの現地社員からの提案を吸い上げた、企業の社会的責任としての対応である点が強調されてよい。儲けるためのハラール対応ではなく、社会的倫理的な自主的な活動としてのハラール対応なのである。
とはいえ、味の素や日通のような対応ができる企業は限られているはずだ。それでも、何かはやらなければならない。となれば、まずはハラール認証。ちょうど2年前、大企業を中心にハラール認証疲れのような状況があり、国内のハラール認証団体は、有力団体数軒に収斂されていくかと見ていたが、17億人の市場目当ての企業を掘り起こそうとする認証団体が相変わらずの乱立状態との指摘もある。行き先はどこであれ、走り出すバスには何とかして飛び乗りたいというのが人間の心理であり、それを巧みに突いてくるのが一部の利益志向型の認証団体といったところであろうか。
しかしながら、飛び乗ることがすべてではない。そこで、ここでは、できるだけ全体を見渡す目線で、この問題を眺めておきたい。イスラームの事柄を扱うときに、ぜひとも心に留めておきたいのが、イスラームには3つのレベルがあるということ。報道で繰り返し語られ、人々のイメージを支配する言説のレベル、イスラーム教徒個人や彼らの社会を直接見ることによって理解できる現実のレベル。そして、イスラーム教徒が目指すもの、あるいは従うべきものとして誰もが信じていて、啓示に下されている教えのレベル、すなわち真実・真理のレベルである。
この3つのレベルの話は、別にイスラームに限った話ではない。たとえば、噂では気難しいと言われている人が、実際にあってみると思いもかけないほど人当たりのいい人だったりする。言われていることと目で確かめられることの差異の問題である。しかしながら、本当は、理想に燃える熱い人だったりするかもしれないが、ふつうは、この部分はよくよく付き合ってみないとわからない。なぜならばどこかに書かれているような性質のものではないからだ。
イスラームでは、この真実のレベルとでもいうべきものが、アッラーの言葉である聖典とアッラーの御使いであるムハンマドの言行によってたどることができる。イスラームにおいては、アッラーが真理によって示したあるべき姿をまた知ることができる。よって、言説によってイメージされるイスラームも、目の前で繰り広げられる現実のイスラームも、真実のレベルからこれを論じることができるのである。
先に紹介した味の素の対応も、日通の対応も、彼らが行なったのは、インドネシアなりマレーシアなりの現状に対する対応である。インドネシアの現実のルールに基づく判断に従い、現実を見極めるため法務部を強化する。マレーシアの現地社員からの要望をベースに企業の社会的責任としてハラール対応を進めていく。極めて現実的なのである。
しかしながら、教えのレベルから「ハラール認証」を眺めてみると、認証制度自体がイスラームをダメにしている側面があることに気づく。たとえば、食に限って話をすれば、「ハラールでおいしいものを食べなさい」がイスラームの基本である。ではハラールとは何かといえば、原則としてすべての食べ物。となるとハラールを食べろという命令が意味をなさないと思われるかもしれないが、そこには若干の例外がある。アルコールと食肉の一部。食肉については、豚肉であり、死肉であり、苦痛への配慮なく殺された家畜の肉である。
日本においても豚肉を生で食べる人はいない。必ず火を通す。なぜならば生の豚肉には、重篤な症状を引き起こす恐れのある寄生虫や、食中毒の原因になる細菌が含まれているからだ。聖典クルアーンでは、豚肉は、「不浄である」としている。この件に限らないが、イスラームの聖典クルアーンには、人間にとって当たり前の叡智が、テクストとして下されているところがある。
しかし、聖典には「豚肉」と書かれているにもかかわらず、それを「豚」に広げるのが人間だ。そうした方が敬虔な態度に思えるのかもしれないが、この手の敬虔さがかえって人を苦しめる。豚肉に関しては、やむを得ない場合で、イスラーム法の秩序に対する敵対的な姿勢によらない場合は除かれると下されている(雌牛章173、家畜章145、蜜蜂章115)。つまり、豚肉の食用禁止にしても、絶対的なものではない。つまり、状況によっては豚肉を食べるという選択肢さえ個人に与えられていることがわかる。
それにもかかわらず、豚肉の禁止を豚全体にまで及ぼして考えるのが人間なのだ。どうも人間は、「自由」が苦手だ。そもそも、アッラーはこの天と地とその間にあるものは、人間の用に供させるために創造したのである(ルクマーン章20)。であるとすれば、豚もまた人間の用に供することができるからこそ創造されているのである。ところが、豚肉の禁止を豚に広げてみる、さらに、絶対的に禁止だとしてみる。そうすると、だいぶ制約が増える。
苦難があってはいけない。楽にしろと教えているのが教えのレベルのイスラームなのに、現実には、苦難を抱え込んでそれに耐えることがイスラームになってしまう。イスラームが人類全体の教えからいわゆるイスラーム教徒を自認する人々の教えになってしまう転換点はここにある。本来的にはわずかな例外を除きすべてが許されている食べ物に関して、「ハラール」のレッテル張りを行って、食べられるのはそれだけだよという形で人々に制約を課し、自由を奪うのがハラール認証の本質だ。
イスラームは制約が多くて厳しい宗教だと思い込んでいる人々が、しかしイスラーム教徒を相手に商売や取引あるいはサービスの提供をしようとしたとき、その制約なり規制なりを一挙にクリアしてくれるなら「ハラール認証」は福音だ。だが、一挙にといかないのが現実だ。国内の認証団体を見ても、細部に行けば行くほど基準はまちまちである。パキスタン系の団体はパキスタンの、インドネシア系の団体はインドネシアの、マレーシア系の団体はマレーシアの各国で土着化した基準をハラール認証の基準に持ち込んでくるからだ。マレーシアの伝統的な菓子タベあるいはタバイは、発酵によりアルコールを含有するが、この菓子がハラールの基準について問題視されることはない。
このように実際には基準がバラバラであるゆえ、アウトバウンドについては、輸出相手国の基準に合わせなければならないところが少なからずある。たとえそれがムスリム17億人すべての利益ではなく、一部の国家のための利益を誘導するものであったとしても、あるいはまた「教えとしてのイスラーム」に照らしてみたとき、現実に引っ張られて逸脱を侵すものであったとしても、現実的な対応を迫られる場合が出てくる。それぞれの国家がそれぞれにハラールの基準を設定し、自国に入ってくる商品やサービスに関してはその適用を義務づけるという現状にあってはそうした基準の受け入れもやむを得ない。
しかし、インバウンドに関してまでも、こうしたばらばらな基準を受け入れ、それを前提に商品やサービスの提供を行なうべきなのであろうか。まず認証ありきというアプローチで問題ないのだろうか。たしかに、どのような来歴の認証であったとしても、「お墨付き」を手にしておくことの安心感と、それがもたらしてくれるはずの利益に対する期待感は、経営者になにがしかの高揚感をもたらすかもしれない。しかし、国内で行う商品販売やサービス提供についてまで、ハラール認証ありきでムスリム対応を始めることには、ハラールを認証すること自体の疑問、それが特定の国や組織の利益に直結し得るものである点、ハラールの基準と言われているものをすべて満たすような基準を設定すると、クルアーンの教えているところから離れてしまうどころか、日本の現実からも離れてしまう点。さらに、認証手数料や更新料が、利益に見合うのかどうかの問題もある。つまり、「認証ありき」に囚われることはない。いや囚われてはいけないのである。
そこで、もっと注目されてよいのが、情報開示型の対応である。ハラールであるかどうかの判断材料になる情報を示し、顧客に判断を委ねる形の対応である。
たとえば、イスラーム教徒が豚を食べないことは周知であるが、クルアーンには豚肉の禁止のみが下されているにもかかわらず、豚由来の物質は、豚皮や豚骨から作るゼラチンから、精糖の際に着色物質除去のために用いられる骨炭(獣骨を800度以上の熱で外気を遮断して作られる活性炭の一種。脱色施用に優れる(『ブリタニカ国際百科事典』など参照))に至るまですべて禁じられる。食品のアレルゲン表示や原材料表示がある程度整備されている日本においては、少なくとも日本在住の日本人ムスリムたちは、原材料のレベルで、「豚肉」を含むことが明示されていない限り、そして、肉と区分することが難しい「豚脂」が含まれていない限り、豚肉に関しては問題なしとする。
となると、豚肉不使用という基準が一つは考えられる。それ以外の畜肉、つまり牛肉、鶏肉、羊肉については、いくつかの段階に分けることができる。最も厳格な基準は、ハラールな方法で屠畜されていることが証明されている肉、次が啓典の民(ユダヤ教徒、キリスト教徒)が屠ったと見なされる肉、そして、つぎが、国産も含め豚肉でなければ、よしとする立場。したがって、肉については、生産地の表示が大きな意味を持つことになる。いわゆる認証付きのハラールミートでなければ食べないという人も少なくないが、その一方で、豚肉以外については、特に米国、豪州、ブラジルという一般にキリスト教国とされているところで生産された肉であれば、気にしないというイスラーム教徒が多い点にも気を付けたい。ちなみにクルアーンでは、《啓典を授けられた民の食べ物は,あなたがたに合法であり,あなたがたの食べ物は,かれらにも合法である》(食卓章5)とある
アルコールについては、酒が、賭矢、偶像、占い矢と並ぶ忌み嫌われる悪魔の業である(クルアーン食卓章90節)ことから禁じられる。酒が何かについては、「飲んで酔うものが酒であり、また飲んで酔うものは、すべてハラームである」という預言者ムハンマドの言葉がある。
この二つに照らしてみれば、日持ち向上や消毒のためならばアルコールの使用は問題ない。発酵を抑えるために添加されているアルコールも問題はない。であるとするならば、原則的に醤油や味噌などの調味料の中に含まれているアルコールはほとんど問題がないが、しかし、食品添加物であったとしても気にするムスリムは少なくない。そうであったとしても、原材料表示のレベルで、アルコール無添加のものであれば、問題はないはずだ。
しかしながら、ハラール認証によれば、製造工程も含め、アルコールは徹底的に排除される。たとえば、醤油の場合、アルコールの代わりに合成保存料が使用されるといった具合だ。値段が跳ね上がる点も看過することはできない。『ハヤート』誌の調査によれば、認証の有無による価格の差は、ほぼ5倍強である。認証がついていなければ、安価に販売されている醤油が、ハラール認証を取得しているだけの違いで、一般に市販されている中では、最高ランクの醤油の倍の値段をつけられているというのが現実だ。
みりんについては、それ自体がアルコールであるため、たとえ、調理の際にアルコール分はすべて蒸発してしまっていたとしても、抵抗感を持つムスリムは少なくない。みりんについては、アルコールを含まないみりん風調味料のほうが無難なのかもしれない。
クルアーンにおいて禁じられているのが豚肉と酒だとはいっても、現実のレベルでは、様々な解釈を経て、豚肉のみならず、豚由来の物質は骨炭に至るまで禁じられ、日持ち向上や消毒用のアルコールであっても、アルコールであるという理由で同様に禁じられる。それは彼らの文化であるから尊重されるであると言えばそれまでだが、それらはある特定の状況の下での変容の結果なのであって、教えの本来からの乖離があることも事実だ。ローカルレベルの変容の結果――それを文化と呼ぶことは構わないが――をすべてのイスラーム教徒が共有することは難しいが、変容が加えられる前の原形としてのクルアーンの聖句であれば、信徒たちは、これを完全に共有できるはずだ。
であるとするならば、ローカルな文化コードになってしまったハラールに固執するのではなく、むしろ、グローバルにすべてのイスラーム教徒が共有できるはずのハラールを追求していくという方向性があり得る。その柔軟性、汎用性こそがイスラームであり、本来的な信徒の在り方でもあるのだ。
飲食関係でどうしても避けて通れないのが、礼拝の問題だ。まず、イスラームの礼拝場所に特別な設えは不要である。単独で礼拝を行なうのであれば、せいぜい畳一畳分ほどの清潔な場所があればそれで十分である。1回の礼拝時間は、5分から10分。他のお客さんの迷惑にならないように、空きスペースや空き部屋が用意できていればそれで十分なのである。イスラーム教徒の義務として定められている礼拝は、1日に5回。日の出前、昼、午後、日没、夜の5回である。しかしながら、旅行中は、各礼拝の中で平伏礼を行う回数がおおむね半分になったり、昼と午後の礼拝は合わせて行うことが可能だったりと、軽減が図られている。しかも、夜明け前と夜の礼拝は、自宅あるいは宿泊先で行えばよく、外出先では、昼・午後・日没の3回の礼拝の場所が確保できればよい。
むしろ問題になるのが、礼拝前の浄め(ウドゥー)である。ふつうの洗面台で問題はないが、指先から肘、足先から足首までを水で洗うため周辺に水が垂れたり飛び散ったりしてしまう。そのため、ウドゥーの後は、洗面台の床が水だらけになっていることがしばしばである。厚手のペーパータオルなどの用意があると、双方にとってありがたい。
慶應義塾大学SFC研究所イスラーム研究・ラボでは、ハラール認証によらない、こうしたムスリム接遇の知見を活かして、神奈川県との共催による「ムスリム観光客おもてなし研修会」のほか小田急電鉄も交えた産学官の連携で「箱根ムスリムフレンドリーモデルツアー」「江の島ムスリムフレンドリーモデルツアー」の制作にも携わってきた。横浜ベイシェラトンでの社内向けのおもてなし研修会では、ベイシェラトンのほぼ全社員の方に2週に分けて講義に参加していただいた。また、同ホテル2階の高級人気ブッフェ「コンパス」では、ハラール認証によらないメニュー提供という観点から全メニューのチェックを行い、相当数のメニューをムスリム客が楽しめることも確認できた。
さらに紹介しておきたいのが、県内35か所のレストランを紹介している『神奈川ムスリムフレンドリーレストランブック(改訂増補版)』(英文)である。ハラール認証の取得は前提とせず、食事の原材料を中心とした情報を開示することによって、自分に合ったレストランを選んでいただこうという趣向だ。一目でわかるようにアイコンによる表示を用いている。豚肉なし、一部ハラール、すべてハラール、アルコールの提供なし、礼拝スペースの提供ありが、アイコンで示されている。
インド、パキスタン、バングラディシュ等のレストランはもちろんだが、インドネシア、マレーシア料理、寿司、海鮮、豆腐、天ぷら、天丼、蕎麦、豆腐など和食店も豊富。ラーメン店の掲載もある。そうした中の一店、小田原早川漁村の海舟では、家族連れのムスリムの子供向けに、唐揚げやテリヤキのメニューを付け加えるなどして、また同村のあぶりやでは、No Pork を大型のアイコンで表示するなどの工夫によってムスリム対応を進めている。
情報開示型のおもてなしは、神奈川のほかにも、名古屋モスクを中心とした中京圏や福岡のムスリムたちによる北九州地区でも盛んに進められている。たしかにハラールマークは究極のアイコンなのかもしれない。しかしながら、ハラールであるか否かの判断は、そもそも個々人に任されるべきものであるうえに、基準も統一されておらず、しかも費用対効果も期待できないのでは、ハラールマーク、つまりハラール認証に頼る必要はない。最も厳格なハラール基準のクリアを客側が求めているわけではない。客の要望をうまく引き出してそれに見合ったサービスを提供する。情報開示型のムスリム対応は、マニュアルに頼りきるのではなく、一人一人の顧客の要望に向き合うという商売の基本に戻ることを教えてくれているとは言えまいか。
(2017年8月19日脱稿)


参考文献・URL
奥田敦監修 サラクレシ好美著『ハラールとハラール認証:ムスリマの視点から実情と課題を語る』慶應義塾大学湘南藤沢学会、2017年。
『ハヤート』6号「ハラール探検隊が行く:醤油特集」(11頁)、奥田敦研究室、2016年。http://nafidha.sfc.keio.ac.jp/hayatpdf/hayat6.pdf
『神奈川ムスリム・フレンドリー・レストラン・ガイドブック』(改訂増補版)http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/875404.pdf
小田急電鉄Muslim Tourism in Hakone
小田急電鉄 Muslim Tourism in Enoshima

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