2020/04/27

新型コロナが教えてくれること

ماذا نتعام من انتشار عدوى فيروس كورونا جديد ؟


  バベルの塔の物語では、人々は言語によってバラバラにされた。神は、人間たちが自分を脅かす存在になるのではないかと恐れたからだ。いかにもそのころの神らしい話だ。
 バラバラにされた人間たちは、それでも、お互いに通じ合う努力をして、そこそこのコミュニケーションが取れるようになった。


 新型コロナが来た。人々はどうしたのか。言葉が通じる者同士のまとまりでコロナから自分たち(だけ)をとりあえず守ろうとしている。バベルの塔の神がほくそ笑んではいないであろうか。
 救世主と呼ばれたいファラオたちが神になる。救世主のようでありながら、実はファラオ。実に性質(たち)が悪い。人々は、それに必死に縋るが、救われる者はほんのわずか。それでも人々は、それを「神」と崇める。
 私たちに本当に寄り添い、私たちに応えてくれる存在、私たちを最後まで見捨てない存在はいったい何なのか。
 それなりに機能している政府に選挙によって代表を送り込んでいるような国に住んでいたとしても、コロナより先に経済に命をとられるという状況である。信じるに足るものは何もない、信じること自体を放棄せざるを得ない状況なのだ。
 社会的距離をとれと、政府は言う。前後左右に2メートルの距離。家族であっても2メートルだ。そばにいるから信じられると思っていたものが多くはなかったか。その代表格が家族、そして現金。人間はそもそも群れで生きる。イワシのような群れて生きる魚にもたとえられる日本人の場合はなおさらだ。


 宗教は、人間にこの世とあの世の両方での群れ方を教えているといってよいし、社会は、宗教の群れ方が現世に落とし込まれた結果とみることができる。
 コロナは、人々が群れること自体を拒否する。群れるといえば、イスラーム教徒の礼拝や巡礼はその最たるもの。シャリーアが教えるアッラーの下僕としての表現が奪われる。
 社会的距離を保つ中で、あるいは、周りの人と物質的に密接な距離に入れない中で、その距離の中に私たちが見出すものは何であろうか。
 寂しさだろうか。恋しさだろうか。あるいは、苦しさや哀しさであろうか。
 もっと目を凝らしてほしい。心の目を凝らしてほしい。見えないものを見ようとする心の目。それでもあなたを包んで守ってくれている存在に気付かないであろうか。元気であったとしても、あるいは病床に付していたとしても、あなたを生かし守ってくれている存在のことに。
 それに気づくことができれば、徐々にではあるかもしれないけれど、すべてのことがのありがたさに想いを致すことができる。
 寂しさや恋しさは希望に変わり苦しさや哀しさは喜びに変わる。あなたは、最後の最後まで、死んだ後も永遠にあなたを見捨てない、大きな存在の存在に気づくことができているからだ。神はあなたを見捨てることはない、たとえあなたが神を忘れ、見捨てたとしても。当たり前すぎて忘れてしまうのだ。
 周りに人が近すぎるとなおさらだ。


 コロナがもたらしたのは、群れすぎたことに対する警告である。密閉の距離感で、密接し密集する周りに囚われて、当たり前のことや 本当に信じるべきもの、つまり、生むとか生まれるとかという関係で結ばれる関係ではなく、創造するものとされたものという関係で結ばれている関係を思い出せという警告なのである。
 三密の中に巻き取られず、預言者気取りのファラオたちに追随するのではなく、創造主の方を見なさいということだ。
 コロナの生みの親は、大局的には、自然をほしいままにしてきた人間の欲望であり害悪であろう。もちろん、コロナ自身であるかもしれないけれど。。しかし、それも創造主たる神の行なったことではある。
 乗り越えられない試練を神は与えない。かつてイブラーヒームがそうしたように、創造主への純粋な思いは、社会から人を遠のかせる。バベルの塔の神にはそれを創った神がいた。その神は、あまりにも豊かで妬むことを知らないし、恐れられるばかりで、自らが恐れることは決してない。預言者気取りのファラオたちと比べることができない。
 何を信じ、何に縋るのかを、あるいは、何にしたがうのかを、社会から距離をとりながら、考える機会を与えてくれているのがコロナウイルスだとは言えないであろうか。

2020/04/26

新型コロナウイルス感染拡大下のラマダーン月のサウム(斎戒、断食)について

  في صيام شهر رمضان في اليابان تحت انتشار عدوى فيروس كورونا جديد



 新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、人類社会の全体が未曽有のチャレンジを受けている。イスラームの信仰のまた例外ではない。全世界20億の信者がモスクにも、あるいはマッカ(メッカ)にも集まること自体を控えなければならないのだ。

 ラマダーン月のこの1か月間、モスクに、ムスリムたちの家庭にあるいは夜間のスークに人々が集まる。世界の各地の様々な文化的背景を持つムスリムたちがモザイクのように暮らすここ日本では、ステイホームで3密と移動を徹底的に回避することによって感染拡大と医療崩壊を食い止めようと遅ればせながら政府から非常事態宣言が発出されて、そろそろ3週間が経つ。ラマダーンの前半2週間がステイホーム週間と重なった格好だ。
 ステイホームと3密の回避は、ラマダーン月のムスリムの行動にも大きな制約を課すことになる。お祈りにモスクに出かけることも、あるいは、イフタール(断食明けの食事)に友人を招くことも招かれることも難しくなるからだ。毎年信者であるなしにかかわらず、多くの人々にイフタールを振舞ってきた東京ジャーミイも、今年のイフタールの食事会は中止にするという。



 イスラームは、人間は一人では生きられない、群れてこそ生きられることを、5行の形で示し、人々にその実践を促している。しかし、コロナ禍において人々は群れること自体を回避しなければならない。
 たとえば礼拝は、それ自体が社会の在り方のモデルだという説明を長くしてきた。信者の列は横一列、そこには貧富の差も世代の差も関係がないと。しかし、そもそも密集して密接に並ぶことができない。集団で祈ることができない。社会の連帯を体感する場所が失われてしまう。
 であるとするならばどうするのか。社会的距離を保ちながら、しかし、つながりを実現するような社会の在り方を考え出さなければならない。




 そこで、おそらく今だからこそ考えられることがある。それは、アッラーとの向き合い方だ。集団では祈れないかもしれないが、アッラーに対して祈れないわけではない。モスクへ行かなくても、自宅で十分に祈ることができるのイスラームの祈りだ。
 一人で行なう祈りでは、まさに創造主たるアッラーとじかに向き合う。心静かにアッラーと向き合う大切な時間を与えられたことになる。アッラーのラフマに想いを致す最高のチャンスなのだ。それでも夜は空けるし、止まない雨もない。コロナウイルスも、おそらくは人間が作り出した悪がまわりまわって降りかかっているものとは思うのだけれど、それでも、地球は人類は、多くの犠牲者を出しながらも、なんとか持ちこたえている。アッラーの慈悲慈愛を感じないわけにはいかない。




 ところで、今、世界中の多くの人々が、ウイルスの感染拡大の終息を祈っている。科学者も、政治家も、さまざまに見解を述べるけれど、結局は祈るしかない。特定の信仰を持たない人々であっても、あるいは、無神論者と言われる人々であっても、祈るほかない状況ではなかろうか。
 ここで思い出しておきたいのが、アッラーはラッビルアーラミーンであるということ。ラッビルムスリミーンでも、ラッビルサウディーイーンでも、ラッビルフカラーでもない。すべてを御存知で、すべてを見聞きしているのだとすれば、世界中の人々の祈りはアッラーに届いているはずだ。
 そしてすべてがその存在の創造によるものであったとするならば、ウイルス感染の終息の祈りもその創造主に向けられるのが何より効果的ということになる。
 そんな言説は、非科学的だと思われたかもしれないが、科学がこれほど発達していてもコロナ対策はすべて後手に回っていて、祈るしかない状況に置かれていることも事実である。そうした祈りをだれに受け取ってもらうのかというレベルの話である。
 国家元首、政治的なリーダー、宗教指導者に祈っても、コロナ対策にならないことは誰でも知っている。であるとするならば、森羅万象を創り出す創造主に対して祈りを向けてみる。




 アッラーというと、「イスラームの神」と理解されがちだが、すべての人々の主なのである。厳格さが際立つ神とイメージされがちだが、じつは、なによりも広く遍く慈悲慈愛に満ちた神なのだ。それは、とてつもなく大きな一なる存在であり、この世もあの世も見えるものも見えないものも有限も無限もすべてを包み込み、そこからすべてが創造される「大きな一」。この存在からだけは、誰も、何も逃げることができない。そして、祈りは必ず実現する。それがいつなのかは、神のみぞ知ることではあるけれど。。
 ラッビルアーラミーン(万有の主)としての主は、人々の特定の宗教を強制することはない。したがって、そこには、イスラーム教徒がアッラーと言っているときに、他の人々が想起しているのとは必ずしも一致しない、すべての人々を優しく包み込んでいる神の存在がある。
 そうした神の在り方がコロナウイルス禍の中においてもすべての人々の連帯のもとになるプラットフォームを提供できるのではないかと考える。それは、一神教と多神教をも包摂し、祈る人々すべてを束ねられる一神教4.0と呼びうる地平だ。
 国境で仕切ることしか対策が打てない今回のコロナに対する各国の対応は、まだまだ、一神教的な社会的な結びつきが3.0未満の展開しかできていないということの証左でもある。




 社会的な直接的な結びつきに強力な制約がかかっている今年のラマダーン。大きな一なる存在に一人の人間として直接向き合うにはまれなチャンスとなる。サウムとは、もともと「控えること」の意味。飲食にとどまらず、欲望も、怒りや嫉妬も抑制する。「断食」ではなく、「斎戒」の訳語が用いられるのもそのせいである。コロナに奪われた数多くの命の悼みつつ、コロナによって身体的に、経済的に、社会的に苦境に追い込まれているわれわれの状況を共有し、終息に向けて、優先順位を見失わず、時宜に適った過ごし方で今年のラマダーンは過ごしたい。





#食べないことにより体調を崩し、医療の世話になることが、医療崩壊に拍車をかけることにもなりかねない状況。サウムの実践が、人々を生命の危機にさらすようなことを主は望んでいないのではないか。むしろ、自分自身はコロナウイルス感染者であるかもしれないという自覚を十分にもちつつ、免疫力を落とさぬよう体調の管理に努め、施しの実践にかじを切るのも今年のラマダーンの在り方かと思う。

2020/04/12

心に抗体を持つために:聖典クルアーン『象章』によせて

1.エチオピアによるイエメン支配

「象の仲間たち」とは誰のことなのであろうか。イエメンにキリスト教が伝わるとキリスト教徒たちはひどい迫害を受ける。その中の一人ダウス・ズー・サアラバーンが窮状を訴えるべくローマ皇帝のもとに駆け込んだ。ローマ軍の派遣にイエメンは遠すぎる。そこで、時のローマ皇帝は、エチオピア皇帝に「ダウスを援助して、仇を討て」と手紙を書いた。命を受けたエチオピア皇帝(ナジャーシー)は、7万のエチオピア人を派遣した。そのときの司令官がエチオピア人、アルヤート。やがて彼がイエメンを支配するようになる。

数年が過ぎたが、アルヤートと同様にエチオピア軍に参加していた男に、アブラハ・アル・アシュラムがいた。二人の間にイエメン駐留のエチオピア軍の指揮権をめぐって対立が生じ、エチオピア人は2つに分裂したが、全面衝突で犠牲者が出るのを回避しようと、アブラハは一騎打ちを申し出て、勝者が全軍を束ねることで、両者は一致した。アルヤートは美男で長身。槍を手にしていた。アブラハは、背が低く太っていてキリスト教を奉じていた。アブラハの後ろには、アルワダという奴隷が控え背後を守っていた。

「アルヤートは槍を振り上げ、アブラハの脳天めがけて打ち下ろした。槍はアブラハの額に当たり、片方の眉と目、そして鼻と唇を切った。このためアブラハは、アシュラム(顔の切り傷のある男)と呼ばれる。そのときアルワダが、アブラハの背後からアルヤートを襲って殺した。アルヤートの兵はアブラハのもとに走り、イエメンのエチオピア軍は彼のもとに統合された」のである。ナジャーシーは、激高したというが、アブラハが皇帝への誓いを立てたことで許され、その土地にとどまるよう命じられたという。



2.象とその仲間たち



その後アブラハは、サヌアーに世界に類のない荘厳な聖堂を建てた。アブラハは、ナジャーシーにこう書いた。「王よ、あなたのために教会を建てました。これまでどの王のためにも、これほどのものが建てられたことはありません。この教会を必ずアラブの巡礼地にして見せます。」

この手紙のうわさがアラブに広まると、アラブの暦を調整していた――つまり、禁忌月と通常月の入れ替えを行なっていた――キナーナ族の暦調整人(ナサア)は巡礼地を変えてみせるという言葉に怒ったのである。彼は、アブラハの聖堂へ行き、中でしゃがんだ(=排便した)。

「メッカにあるアラブが巡礼する館(カアバ)の民の仕業です」との報告を受け、アブラハは誓いを立てる。「その館に遠征して破壊する」。

そこでアブラハはエチオピア人に命令を発し、遠征の準備を整えさせ、遠征に出立した。そのとき一頭の象を連れていた。その象こそが、この「象章」の象であり、アブラハを隊長とする遠征隊が「象の仲間たち」ということになる。

この象と象の仲間たちの進撃は続き、ある朝、アブラハはメッカ進入の準備を整え、象に装備をして戦闘態勢をとらせた。カアバを破壊して早々にイエメンに帰るつもりであったという。

ところで、象の名前はマフムード。メッカを向いた象にヌファイル・ブン・ハビーブ(雇われ道案内。クライシュ族)が近づいて、耳をつかんで言ったという。「マフムード、跪け。まっすぐにもと来たところへ帰れ。いまお前がいるのは、侵してはならない神の聖域だ」。言い終わると耳を放した。跪く象。ハビーブは大急ぎで、アブドゥルムッタリブらが待つ山に戻った。

兵士は象を打って立ち上がらせようとしたが言うことを聞かない。イエメンの方に顔を向けると立ち上がって、速足で進んだとも伝えられる。

「そのとき神は、アブラハの軍勢に海から鳥を遣わした。その姿は燕かバラサーン(鳥の一種)のようであった。どの鳥もくちばしに一つ、両足の鉤爪に一つずつ合わせて3つの石を持っていた。石は、ひよこ豆カレンズ豆くらいの小ささだった。当たった者は皆死んだ。当たらなかった者は逃げ出して、大急ぎでもと来た道を引き返し、イエメンまで道案内をさせようと、ヌファイル・ブン・ハビーブを探し回った」。

鳥の石礫による攻撃は想像を絶する残酷さを伴った。アブラハの軍は、退却の道中バタバタと倒れ、水場で休むたびに死んでいった。アブラハは、身体に神罰を受け、運ばれて退却する間、指が一本また一本と落ちた。指が落ちたところはただれ、膿や血がにじみ出た。ようやくサヌアーに戻ったとき、アブラハは鳥の雛のような無残な姿になっていた。胸が裂けて心臓があらわになって死んだ、ともされる。





3.アッラーの恩恵は誰のためのものか



のちにアッラーはムハンマドを預言者として召命すると、啓示の中でクライシュ族に与えた多くの恩寵や恩恵を数え上げた。エチオピア軍を撃退してこともその一つである。クライシュ族をこのままの状態で存続させるためであった。

《お前は見なかったか、主が象の軍勢をどうしたか。彼らの企みを無にしなかったか。彼(主)は彼らの上に鳥の大軍を遣わして、焼き土の石を投げつけ、食い荒らされた麦の葉(アスフ)のようにした。クライシュ族の保全(イーラーフ)のために、彼らの冬の旅と夏の旅の保全のために。彼らをこの館(カアバ)の主に使えさせよ。飢えた彼らに食べ物を与えた御方に、恐怖を除いて彼らを安心させた御方に》(105,106章)

たしかに、クライシュ族の視点で見れば、対抗勢力から守り、あるいは、飢えと恐怖から自分たちを救ってくれたアッラーなのかもしれない。しかし、象の軍隊が送られた経緯は、もとをただせば、アラブによるキリスト教徒に対する迫害に端を発しており、さらに、カアバの地位を奪われることの危機感と嫌がらせから、教会で脱糞行為に及んだことに対するに報復なのである。それにもかかわらず、エチオピアの軍勢は壊滅的な状況に追い込まれた。アッラーがクライシュに、あるいはアラブに味方した。こうした歴史的事実を捉え、だからアッラーは、クライシュに、あるいはカアバを守る民とともにあって、カアバを守護しているという話は、クライシュ族には訴えるのかもしれない。

しかし、どちらかを勝たせる神では、負けた方は切り捨てられてしまうのではないか。特定の人々を守る神では、必ず守られない人々が出てきてしまうのではないか。クライシュ族に対して、アッラーの存在を気付かせる逸話としての象の物語やカアバの物語を否定するつもりはないが、現在イスラームが直面しているのは、象やカアバにリアリティを持たない人々ではなかろうか。奇跡的に敵に勝ったとか、自分たちだけが特別に守られているということをアッラーの存在確認の手掛かりにしていたのでは、アッラーの存在の途轍もない広がりとは裏腹に、あるいはまた、教えとしてのイスラームが常に持ち続けているであろう包括性とは裏腹に、困ったくらいにローカルで、辺境的なものになりはしないだろうか。象章におけるエチオピアの軍勢のような歴史的な現実的な敵の存在が、信者でない者は一律、仮想的な敵、つまり不信心者として、一段低く見るような態度とともに、イスラームの前提として、織り込まれ、刷り込まれているのではないかという聖典の世界観がここでも見え隠れしている。



4. 見えない敵との戦い



新型コロナウイスルの世界的感染拡大が止まらない。インビジブルエネミーとの闘いに世界中が立ち向かわざるを得ない状況だ。グローバリゼーションが言われるようになった当初から、感染症の地球大の感染拡大の危険性は指摘されてはいたが、SARSなどそれまでの感染症との違いは、それ自体の感染力の強さと、それに関する情報の強力な拡散力だ。SNSの圧倒的発達を背景にしたコロナウイスルの情報拡散力は、SARSの68倍であると日経は伝えた(2020年4月6日朝刊)。感染症のパンデミックと、情報のパンデミック(インフォデミック)という二つのパンデミックに翻弄されているのが、ここ2か月ほどの世界の有様だ。

ウイルスはもちろん、SNSの発信者もマスでとらえたならば貌が見えない。どちらもインビジブルだ。こうした見えない敵との戦いに「象章」は、勇気を与えてくれるであろうか。カアバへの巡礼さえ中止せざるを得ない状況の中で「クライシュ族章」は生活の困窮や先行きに対する不安や恐れから人間たちを救ってくれるであろうか。当時のアラビヤ半島の歴史的事実に依拠し、その恩恵に浴した人々に対して降されている啓示に、それを期待すること自体に無理がある。見える敵に対する戦いだったのだから。

とはいえ、コロナウイルスに対する対策は、カアバ神殿型だ。各国が、国境の封鎖によってウイルスのキャリアーを水際でシャットアウトし、それぞれの神殿(政府)が、飢えと恐怖から経済・金融政策を通じて人々を守ろうとしている。ところが、インフォデミックで膨らむ一方の不安の爆発を抑え込むのが難しい。対数関数的に増大する不安を前に各国政府が打ち出す支援など焼け石に水。不安は不安を栄養に膨らみあがる一方だ。オーバーシュートは、医療崩壊と直結するとされるが、不安のオーバーシュートは、人々の心を破綻に追い込む。

求められるのは、せめて人々の心の破綻を阻止すること。つまり、ウイルスに対して抗体がつくられるように、心の中に見えない世界のレベルで、不可視なウイルスを安全裏に取り込みうるだけの心の抗体づくりがあってはじめて、不安に押しつぶされない大きな心が持てるというもの。コロナ鬱に隙を与えない心を作る。そのためには、見えないコロナウイルスの不可視性よりさらに純度の高い不可視の世界へのまなざしが不可欠である。



5.祈り、励ましは、ノーボーダー



闘病者に対する祈り、医療従事者に対する励まし、大切な人を失ってしまった人の悲しみへの共感、こういった思いに、国籍、性別、信仰、社会的階層、世代、文化的背景は関係がない。

社会的距離をとりながらも気持ちをつなげるために知っておきたいのが、そうした祈りや励ましや共感といったものが実は、不可視の世界でしっかりと聴き取られているということ。すべてを聴いている存在が存在するということ。

つまり、私たちの祈りは、その存在にも聴きとられているということ。それは、それこそ、国籍も性別も信仰も、社会的階層も、世代も、文化的な背景も関係なく、人々の声を聴いているということ。

コロナウイルスより先でその存在は、私たちの祈りを聴いている。コロナウイルスを創ったその存在に祈るのが一番効果的とは思わないか。

集団の礼拝のみならず、聖地への巡礼でもいわゆるお参りでも、人々は群れる。思いを共にする人々と群れに行くことにさえ見える。そのこと自体を脅かすウイルス感染症の感染爆発だ。いまこそ、すべての人間の祈りを聞き入れ、また、コロナウイルスも創った、そうした「1」なる大きな存在に向き合ってみる。それが何より心に抗体を持つ特効薬になる。疫学的なワクチンの開発が急がれる現状、手洗いだけでなく、せめて心に抗体を作ってインフォデミックの予防に務めよう。

(2020年4月12日©Atsushi Okuda)

注目の投稿

里親という希望の光

■ ストレスに傷つけられていませんか?  周囲から些細なストレスに対して、次のような反応に出会ったり、感じたりしたことはないだろうか。 「ストレスを自分に対する攻撃と受け止め、すぐさま反撃行動に出てしまう」 「暴力的な行動で他人に対して怒りを爆発させる」 「自分自身を傷つける行動...

人気の投稿